竜族であるナマエは人間が嫌いだった。
竜の王たるナーガに連れられた際も、かの王の意に反した程にだ。そもそも、人などは都合の良い時だけ竜を崇める下等生物なのだ。助ける価値などは無い。
それに彼らは弱く、脆い。ナマエの生きる時間の、ほんの一瞬で死んでしまうではないか。
ロプトウスが暴れた際も、人間に力を与えず、神器も作らなかった。
徹底した不干渉。それがナマエのスタンスで、変える気もない。そういう理由から、力を分け与えた十二の竜が人間を見放し、この大陸から去って寿命尽きた後も、ナマエは静かに存命していた。
ナマエが一つ吼えれば王族は傅き、海賊は旗を下ろす。
そうして占領した霧の濃い海辺の神殿には、神官も従者も居らず、ナマエはただ一人世界を避けて暮らしていた。
しかし、その不干渉も意図せぬ理由で終わる。
何者かがナマエの寝ている神殿に入り込み、台座ごと運んだのだ。そして寝ぼけ眼を擦った時、ナマエは貴族の家のオブジェになっていた。
怒り狂い逃げたは良いものの、女性として歩けば賊に襲われ、人間を助けようと竜に変化した途端に弓を構えられ、炎魔法をぶつけられた。
最早これまでかと腹を括ったところをエルトシャンに助けられて、今現在ノディオン城の客人として毎日を過ごしている。
「大丈夫か?」
そう言って右手を差し出した少年の姿を、生涯忘れることはないだろう。
腰の抜けた間抜けな娘を抱えて城まで戻り、手厚く介抱してくれたものだからナマエは当然のように彼が好きになった。
世間知らずのナマエが人間ではないのだと分かった上で優しくしてくれたエルトシャン。聡明で優しく、少しだけ不器用な獅子の君。
弱く儚い人間であれど、その心と瞳は美しく、ナマエは僅かな時でも寄り添いたいと願った。
彼には王としての責務があって、いずれは妃を取らねばならない見であった。それは流れのナマエなどではなく、出自のきちんとした、人間の貴族の令嬢でなくてはならない。ナマエの仄かな恋慕などは、叶う筈は無かった。
それに彼には想い人が居た。それでも、ナマエは良いと思ったのだ。彼を愛してしまっていたから。
▽
庭先で草花に水をやっていると、冴えるような青髪が風に揺れた。
美しい花の道はノディオン城の自慢だ。ナマエがこの城に来た時、花の並木を皆で作ったのだ。此処を彼と、彼の妹と歩くのはナマエにとって一番の幸福だった。
顔を上げてみればシグルド公子が遠くに見える。彼は片手を上げて、此方へ歩いて来た。
「シグルド。来ていたのですね」
見えた顔は、愛しの君の士官学校時代の友人である。士官学生となった彼に、拾ったと紹介され大変困惑されたものだ。そして竜であることも暴露されたが、彼とキュアンは快く受け入れてくれた。
流石はエルトシャンの親友達だと、ナマエが益々彼に惚れ込んだのは余談である。
「やあ、ナマエ久し振り」
「…少し髪が伸びました?」
「ははは、そうだね。そういう君は変わらないな」
そういえば以前会った時から既に半年程経過しているな、とナマエはふと思った。
時間の概念は緩く、それくらいの月日であれば瞬きの一瞬程の感覚に思えてしまう。
もう少し時間を気にしてみるものだな、とナマエは反省する。彼女は愛した人と同じ感覚で居るために努力は怠らないつもりだった。
「竜ですから。時の流れも、身体構造も違います。貴方たちからすれば、永遠の命があるようなものです」
茶化すように犬歯を見せれば、シグルドは可笑しそうに笑った。そしてふと思い出したような顔をすると、懐から一枚の紙を取り出す。
「近々キュアンの娘が生まれるらしくてな。君も会いに行くといい」
「まあ、キュアンが。早いものですね」
受け取った手紙には、エルトシャンの名前とラケシスの名前、末尾にはグラーニェとナマエの名前も入っている。
キュアンとシグルドの妹であるエスリンが正式に結婚したのは少し前だったと記憶しているが…案外かなり前の話なのかもしれない。なんにせよ、喜ばしいことだった。
しかし、ナマエには懸念がある。もしもこの手紙をグラーニェが目にすれば。
グラーニェは、あまりラケシスのことを良く思っていない。
ラケシスはノディオンの王女であり、この地に取っては彼女よりも重視される血ではある。
だが、エルトシャンの妃として嫁に来たグラーニェからしてみれば、愛する夫に何よりも大切にされる、困った存在なのである。
キュアンは少々そういったところが疎い。
彼の両親であるレンスター全王は夫婦円満で、キュアンもまたエスリンともシグルドとも良い関係を築いているから、仕方がないところではあるが。
「ところでエルトシャンは?」
「この時間は上の書斎に居らっしゃいますよ」
言葉を返せば、礼を言って長い廊下を歩いて行った。
その後ろを護衛兵がぞろぞろと付いて行く。高い身分の人間はいつの時代も大変である。
▽
シグルドが訪問したのは、何日前のことだっただろうか。
よくない事だとは理解しているのだが、所謂人外的な思想は中々抜け切らない。今だに日付という感覚に慣れておらず、一月だったか、二月だったか、忘れてしまうのだ。流石に数日ではないことは分かるのだが。
ナマエが如雨露に入った水をひっくり返していると、スカートの端が小さく引っ張られる。後ろを振り向けば、小さな目がナマエを見上げていた。
「アレス様。お昼寝はよろしいのですか?」
寝ぼけ眼の可愛らしい子供の頭を撫で付ければ、彼はこくこくと頷いてみせた。
しかし、先程の足音で目覚めてしまったのだと思うと、やはりここはもう一度寝かせないといけないだろう。
「寝て起きたら、何をして遊びましょうか」
独り言のように呟けば、小さく「ボート」と帰って来る。
ナマエは竜にならずとも、小舟を漕ぐのが得意だった。はじめて会った人間が、ナマエにそれを教えたからだ。…彼は大人になり、二度と会いに来ることは無かったが。
アレスは未来のアグストリア王。獅子王エルトシャンの後を継いで立派に成長して貰わねばとナマエは思案する。そして優しく抱き上げると、ゆっくりと揺らした。
暫く揺らしていれば、規則の正しい寝息が聞こえ、再び夢の中へ落ちたのだろうと判断する。そのまま如雨露を放って寝室へと向かえば、アレスを探しに来た獅子王がまたかという顔をした。
ナマエは不定期に子守をしており、グラーニェが構えないときは殆どずっと側に居る。
幸いにも、ナマエはグラーニェと良好な関係を築いていた。
彼女はナマエがエルトシャンを愛していることは気付いているだろうが、ナマエは竜で、ヘズルの血統を見守る為に此処にいる。
エルトシャンに頼ることも、甘えることもしない。グラーニェの立場を案じて提言することはあるが、それが却って良かったらしい。
友人として、隣人として、或いは神竜信仰によって、適切な距離で存在していた。
「ナマエ、アレスは」
「眠ってしまいました」
「そうか。お前にはいつも世話になっているな」
「構いませんよ、お互い様です」
アレスを寝台に横たわらせ、「そういえば」と話を振る。
先を言わずとも分かったらしい彼の返答が返ってきた。
「レンスター行きは見送りだ。グラーニェの体調が優れないらしくてな。すまないが、暫く面倒を任せられるか」
どうやら、アレスを追い掛ける体力が無かったグラーニェの代わりに、彼が直々に探しに来た様子だった。
エルトシャンの妻である彼女は優秀で、夫さえ関わらなければ聡明な女性だったが、体の弱さだけはどうにもならない。子を産んでからは顕著にそうで、いつ崩御なされても不思議ではなかった。
ナマエが代わってやれれば良いのにと、いつも思っている。
それに、グラーニェは哀れな女である。
エルトシャンは彼女を愛し、愛しているからこそ彼女に城を動かぬよう言い付けるが、グラーニェはそれを突き放されているように感じている。
そうして、いつでも兄を慕い、着いて回るラケシスへと矛先が向くのである。
人間の女性というのは、直接男に怒りを向けず、同性に当たるものだと言う。ナマエはグラーニェもラケシスも好きであったから、その辺りは仲裁に入って頂きたいとは常々思っていた。
政略結婚とはいえ彼女はエルトシャンに惚れていた。彼も間違いなくグラーニェとアレスを愛している。
だが、確かに彼の一番はラケシス姫だ。惚れたと愛したは違うし、恋と愛はまた別物。愛してはいても、彼がグラーニェやナマエに恋をすることは無いのだと誰しも分かっている。それでも、割り切れないからグラーニェはラケシスが嫌いなのだ。
なんと痛ましいことだ。ナマエには人間の心があまり分からなかったが、今ならば少しだけ分かる気がした。
かと言ってラケシスが幸福であるかと言えば、それは違う。どれだけ心が繋がっていようと、誰よりも大切な存在だろうと彼女は異母兄弟だから結ばれてはならない。
兄妹のままであっても、平民ならば良かっただろう。だがエルトシャンはノディオンの獅子王であり、ラケシスは王女。生真面目で、善良な王であるエルトシャンは、絶対にラケシスを選ばない。例えどれほど愛していても。
どうしようもなく歪な人間関係が、軋む音を立てながらも存在していた。
ナマエはそれで良かった。例えこの恋が報われなくても。この愛が何の意味も持たないものでも。
悠久に近い時の中、この一時だけでも彼と居られるだけで幸せなのだから。
グラーニェもラケシスも同じように思っているだろう。愛した人と真の意味で結ばれずとも、彼の支えとなれたら。それはきっと、至上の幸福だ。
「ええ、勿論。彼女は体が弱いでしょう?ならば、私が代わりに働くのは当然のこと。同じ人を愛しているのですから、手伝わない道理はありません」
「…ナマエ」
今この時にエルトシャンが手袋越しに髪を撫でるだけでいい。優しく名前を呼んでくれるだけでいい。それだけで、ナマエの心は満たされるのである。
▽
シグルドが反旗を翻したという話が来たのは数日前。
彼がそのようなことをする筈は無いと、エルトシャンは王に御言葉を申し上げに行くそうだった。
しかし、政治に疎いナマエでもわかる。
先王と違い、シャガールという男はエルトシャンを快く思っては居ない様子だったし、そのような話を聞き入れるような人物にも思えなかった。
ラケシス姫との説得も虚しく、彼は旅立つ準備を進めていたので、せめてもと付いて行こうとしたナマエに対する返答は快いものではなかった。
「お前はレンスターに行くんだ、いいな」
驚きを隠さずに彼を仰ぎ見れば、険しい表情を浮かべている。
ナマエを見る目は、反論を許さないと言うような強い瞳だった。
「この私に退けと仰っているのですか?」
「ナマエ。俺が行けと言っている。聞けないか?」
「ですが…!」
「すまない…わかってくれ。俺と共に来れば、お前もシグルドやキュアンと戦うことになってしまうかもしれない」
エルトシャンは苦心している。騎士の忠義と長年の友情に板挟みにされて。王としての在り方と、個人としての在り方を天秤に掛けられているのだ。
ナマエには騎士の気持ちなど分からない。そんなもの、捨ててしまえばいいのにとも思う。
昔のように海を渡り、冒険をしましょう。わたしが吠えれば、海賊も道を開けます。花の並木を抜けて、秋の霧を分けて、ボートを引いて遊びましょう。
だが、そう告げることは出来なかった。
ずっと側で見ていたのだから、彼がそんなことを出来ないことくらい、理解出来て当然だったのである。
「エルトシャン様が仰れば、私もシグルド達と戦う覚悟は出来ます。
貴方が命じれば、なんだって殺して差し上げます…」
「知っているさ。だが、俺はお前を戦わせたくはない。それに、命令したくもない。分かってくれるな」
「それは…」
エルトシャンは困ったように微笑んで、ナマエの前に膝を付いた。
ナマエは驚いて、彼に立つように言うが、エルトシャンは膝を付いたままだ。ナマエもたまらずに屈めば、悪戯が上手くいった時のように彼は笑う。
その時はまだ少年であった彼は、今よりもずっと冗談が上手だった。
「エルトシャン様!おやめ下さい!」
「いい。そもそも、俺はお前と対等の友人であった筈だ」
「ですが、私は人間の世界では身分の無い者です…!貴方様の威信に傷を付けるようなことがあれば申し訳が立たない!」
「最後なんだ、許せ」
彼は聡明で、謙虚な人だった。他者の声に耳を傾け、全てを見据えた上で物事を決めるような。
そのエルトシャンが、譲らないと言っている。ラケシスも頑固で強情なところがあったが、やはり兄妹なのだと思った。彼にとっての譲れない瞬間というのは、今なのだろう。
「…ずっと考えていたことだ。俺が王となった日から、お前は他人行儀になった。
それは仕方の無いことだ。だが、俺がまだ学徒だった時代のように、お前と気兼ねなく語らえたらと…そう思わない日は無かったさ」
「エルトシャン…あなたとの時間は、わたくしの長い生の中で…一番幸福で、優しい時でした」
「ありがとう、氷竜のナマエよ。貴殿と友人であれたこと、俺は決して忘れはしない」
そう言っていつか自分がしたように、ナマエの髪に口付けるのだから、ナマエは何も言えない。
誰よりも苦しんでいるのは彼であるし、生真面目さ故に裏切りは出来ない。不器用な人だが、それすらも愛おしいと思ってしまう。そんな人だから、ナマエは人間風情を愛していたのだ。
「分かりました。…死んだら怒りますからね、精一杯」
「そうだな。肝に銘じておこう」
離れる温もりに、涙が溢れそうになる。だが、彼の旅立ちは笑顔で見送りたい。だからナマエは、いつものように柔らかく微笑んでみせるのだ。
これが最後になるのは薄々気が付いてはいたし、二度とは会えぬだろうということも分かっていた。だけど何も知らない無垢な少女のように、今だけは明るく振舞っていたかった。
子供じゃなくなって、大人になっても…竜を友人だと言ってくれた、彼の為に。
▽
レンスターの街で知らされたのは、エルトシャン様が処刑されたという報らせだ。
後を追ってキュアンとシグルドが戦死なされたのだとも聞いた。恐らく、エスリンも生きてはいないだろう。
それを伝えに来たのはラケシスで、彼女もまた新しい傷を負っている。
加えて言えば、身籠っているようだった。記憶の片隅で、エルトシャンを共に説得しに来た男を思い出す。
ナマエは彼女を案じて、遣いの者を再度出させた。先ほど館にバトラーを向かわせた際、グラーニェはラケシスを入れるなと言ったのだ。だからどうにかして、彼女を説き伏せる必要があった。
「申し訳ありません、ラケシス…もう少しだけお待ちください」
「いえ、いいの。私は…エルト兄さまを殺してしまったようなものだわ。
グラーニェ妃がお怒りになる当たり前。そうでしょう?」
「そんなことは…」
無いとも言い切れず、ナマエの言葉は半端で終わる。
アグストリア王シャガールの召集に応じ、シグルドを討つ為に出撃したエルトシャン。しかしラケシスの説得に応じ、彼はシャガールの元へと戻ったのだ。シグルドは叛逆などしていないと訴える為に。
そうして、彼は処刑された。
だが、これは戦争だ。仕方のないことだった。ラケシスが彼を説き伏せずとも、エルトシャンはシグルドに討たれて居ただろう。…ナマエが共に居たところで、シャガールを殺そうとするナマエが彼に討たれただけだ。
ナマエが知る中で、尤も個人の武勇に優れた者はシグルドだ。対して獅子王は軍を動かすことに優れた将。戦えば、必ず負けて居た。
「本当は、アレスに直接渡したかったのだけれど…」
そう言ってラケシスは剣を取り出した。
ナマエはその黒い剣を見て、手が震えていることに気が付いた。
魔剣ミストルティン。エルトシャンが継承し、生涯離さず持って居た宝剣。それが此処にあるという事実を目にし、彼がもう何処にも居ないことを強く実感したからだった。
「ごめんなさい、ナマエ。貴方にも、辛い想いをさせてしまいました。
私は、貴方やグラーニェ妃には殺されたって仕方がないわ。
だけれど、この剣を。最期まで誇り高い騎士であった兄様の剣を、その血を受け継ぐ息子に託して欲しいのです」
ラケシスは頭を下げ、剣を差し出す。
ナマエの返答は既に決まって居た。
「私は、真実をアレスとグラーニェに伝えることは出来ません。
彼女は、もう長くない。貴方やシグルドを恨むことで、すんでの所で生きながらえているのです」
「…」
「だけど。エルトシャンは、正義と友情…そして貴方への愛に殉じたのでしょう」
「…そうだと…思います」
「自信を持って、ラケシス。貴方はあの方に一番愛されていたのだから。
それを否定してしまっては、エルトシャンが不憫でなりませんよ」
「ナマエ…私は、兄様を愛していたわ。だけど、兄様を一番に愛したまま…あの人に愛されていた。そして兄様も、あの人も…」
「ラケシス…」
「貴方にそんな言葉を掛けて貰えるような、そんな価値のある人間ではないの」
彼女は剣をナマエに持たせた。その形見をラケシスが持って行ってしまっても、エルトシャンは怒らないだろうに。
やはり彼らは兄妹だとナマエは思う。誇り高く、義理堅い。シャガールなどに発現しなかったのも道理だろう。この血は、あのような愚かしい人間に相応しくない。
ヘズルは見る目があったと、ナマエは二度とは会えぬ同族を想った。
「さようなら、ナマエ。兄様と、貴方と過ごした日々は…私にとっても、宝物でした」
なんとなく、彼女とも二度とは逢えないのだろうと思った。
やはり、エルトシャンとラケシスは似ていたのだ。寂しげに笑う顔も、一人だけで戦おうとするところも。
▽
間も無く、レンスターは落ちる。
火の手が上がる街は、夕焼けでもないのに赤く染まって居た。
追手が迫り、囮となったナマエはグラーニェとアレスとはぐれてしまった。
彼女に金と馬を渡し、従者を一人つけて送り出したが、この焼け落ちる街を抜けられる保証は無い。それに、帝国軍には傭兵も参加しているようで、騎士でない流れのゴロつきどもがナマエを取り囲んでいた。
愛した人の妻と子。彼の愛したものならば、ナマエも全て愛している。
そして何もかもを失い、怒り狂った氷竜は蹂躙されたレンスターで吠えるのである。
どれだけ矢に打たれようとも、炎に焼かれようとも、絶対にこの道は通さないし、妻子を追わせはしない。兵を踏み潰して、鎧を噛み砕いて、ブレスと共に呪詛を吐く。人間風情が、この私を怒らせたなと。
煤と泥に塗れた街に、冷ややかな霧が立ち込める。決して明けない、灰色の夜が始まった。
▽
「アレス様。グラーニェを連れてお逃げなさい。大丈夫、私は強いですから」
そう微笑んで幼いアレスを撫でた女は、彼と母を逃がすために戦火に落ちるレンスターに残った。武器も持たない彼女が軍を止められる筈など無いのに。
結局アレスは彼女の奮闘も虚しく、母は死に、自分自身は傭兵に拾われることになってしまった。
彼女は立場こそ客人ということになっていたが、実質はエルトシャンの愛人に近かったのだとアレスは知っている。
肉体関係が合ったのかは今では分からないが、恐らくは無く、二人は潔白な関係であったのだと思う。記憶の父は清廉で、不貞を犯すような方では無かったし、ナマエは父上を愛していたけれど────母上のことも、叔母上のことも愛していたから。
彼女のか細い腕はいつだってアレスを暖かく抱き締めたし、白い指は優しく髪をすいた。
「ナマエ。大きくなったら、私の側にいてくれませんか」
そう膝を付いた子供に、ナマエは暖かに笑った。
今思えばその告白は酷く愚かだ。父に彼女が寄り添っていた理由は一つしかないのに。
ナマエは穏やかに笑ってアレスの手を取った。彼女は優しくはあったが、意志の強い女性である。決して、伴侶となるとは言わなかった。
「アレス様が王となる時、私は必ず側に居りましょう。
そうして、貴方の治世を見届けます。この命尽きる日まで」
御伽話の竜のように鮮やかな色の髪は艶やかに煌めき、その双眼は鋭くはあったが穏やかでもあった。
彼はそんな彼女が好きで、恋だったのだと思う。きっと、今は生きてはいないだろうけれど。
────その人が、どうしてだろう。目の前の帝国軍に襲い掛かる、猛り狂った竜と重なるのだから。
「ちょっと、アレス!近付いたら巻き込まちゃうわよ!?」
無意識に馬を進めようとしていたらしく、焦ったようなリーンの声が耳に届く。
猛々しく吼える竜は激情に燃えているようだったが、その咆哮は哀しくも聞こえる。アレスはその氷雪ような竜麟が、雨のように剥がれ落ちる緑が、凍てつくような美しさが、あの人に重なって見えた。
「リーン。お前は先に本隊に戻っていてくれ」
呼び止める声も無視し、アレスは一直線に駆け出す。広い荒野は竜の吐く青い火で焼け野原と化しており、昔見た焼け落ちるレンスターの街並みのようだった。
だが竜は、器用に街を避けて駐軍地だけを焼く。理性を失った獣ではなく、非常に賢い────いや、そうではない。彼女には理性があった。
馬を駆って暴れる竜の前に立ち塞がれば、竜は掴んでいた帝国兵を取り落とした。男が落ちて、赤い血溜まりを作る。
既に周りには敵兵は居らず、突如として現れた異物に恐れをなした様子に見えた。そして、竜は真っ直ぐにアレスを見て、立ち止まる。やはりかとアレスは声を掛けた。
「ナマエ、ナマエなんだな」
竜は咽ぶように吠えて、胸を抱えた。そして、閃光の中から女が現れる。
うそ、とうら若い女の声が聞こえた。愛おしくて懐かしい優しい記憶。崩れる羽の中から現れたのは、17年前と何も変わらない女だった。
「エルトシャン…?」
女は幻を見たように呟いて、「いいえ、いいえ」と首を振った。
「貴方はアレス様ですね…生きておられたのですか…」
「ああ。お前こそ、とっくに死んだと思っていた」
アレスが震えるナマエを抱きとめてやれば、感極まったように涙を零す。
自分よりも一回り以上大きくなったかつての子供を見て、ナマエは思考する。人間の時はやはり早いのだと。
あの時の幼子が愛しの君と幾許も変わらない年齢になり、彼女自身の身長を軽々と追い越していた。そして強く抱き留めるのだから、喜びの中に、同じくらいの悲しみを感じてしまった。
人の生は短い。なのに、あの方もグラーニェも、理不尽に生命を終えたのだ。
少年は大人に。大人となった彼らは、いや、人間は皆、ナマエを置いて行く。
共に遊んだ日々は終わり、彼らは戦火へと消えて行く。いつまでもナマエと暮らせば良いのに。霧の中で、共に生きればいいのに。だから、だからナマエは人間のことが────。
思考を振り払い、ナマエは青年の頬に触れた。
彼は昔、母君に良く似た顔をしていたが、今ではエルトシャンにそっくりであった。死んだ友の姿をその子に見たナマエは、思わず呟いてしまう。
「…ああ、あの方によく似ておられる」
「そうか?…俺は父上の顔をあまり覚えていないから、よく分からんな」
制圧された焼け野原で、アレスはナマエの背中に手を回す。
一方のナマエはというと、いい加減離れようと思っていたので少し胸を押す。だが、アレスの腕は一向に弛まない。困って見上げれば、彼は少しおかしそうに笑った。
「すまない。俺はお前と離れ難いというのに…お前はすぐに離れようとするものだから。
少し、意地悪をしたくなった」
彼の父はこういった悪戯を好まれる方だった。ウソか本当か分からないことを真顔で言って、「冗談だ」と言う。彼は冗談がへたくそだった。
しかし、アレスの顔は無邪気で、かの方よりも明るく柔和な印象を抱かされる。当たり前だが、彼はあの方ではない。面影を重ねたナマエは、不敬であると恥じた。
腕が緩んだ隙に、ナマエは一歩距離を取る。
手袋越しの手が彷徨って、剣の柄に手を触れた。それはミストルティンで、嘗て同族が切り出し授けた武器であった。
ナマエが人に力を貸していれば…ロプトウスの血統を皆殺しにしろと進言していれば、この剣は今も変わらずあの方が携えていたのだろうか。
▽
軍に正式に加わったナマエは、アレスに連れられてシグルドの息子セリスと出会った。
真っ直ぐな澄んだ青い瞳はシグルドに似ている。柔らかく穏やかな眼差しは母親似であろうか。
ナマエはレンスターに居たので、シグルドの存命中に彼の妻も、子供も見ることは無かった。だが、彼の中には三つの血を感じる。
「君がナマエだね。我が父シグルドの友人だったと聞いている。
力を貸して欲しい。この戦いを終わらせ、平和を取り戻す為に」
彼の側に控える少女は、強いナーガの血を感じる。それと、もう二つ。
ナマエはなんとなく、どうして今ロプトウスの意思が生贄を集めているのか、何故シグルドやキュアンが死なねばならなかったかを理解した。彼らは恐らく、竜族の後始末を押し付けられたのだ。
「はい、セリス。わたしは最後の竜として、我が王エルトシャンの為、そしてシグルドの友人として、貴方に手を貸しましょう」
セリスは驚いた顔でナマエを見る。シグルドからは、ナマエが竜であることを聞いてなかったのだろう。
「わたしは貴方たちの祖、十二聖戦士に力を授けた竜どもの同族なのです」
「そうだったのか。君は嘗ての聖戦の当事者…そんな君が力を貸してくれるのは、とても心強いよ」
差し出された手を握る。シグルドと初めて会った日も、エルトシャンに連れられて握手をした。
ナマエは懐かしくなって笑う。あの日は鮮明に覚えているのに、もう二十年以上も経過してしまった。人生で一番美しく、幸福だった時だ。
セリスは不思議そうに首を傾げた。ナマエは失礼を謝罪する。
「ごめんなさい、セリス。シグルドとも、こうして出逢ったのです。
エルトシャンに連れられて…わたくしは彼と知り合いました。竜だと名乗っても、貴方の父は同じように笑っておられた」
「その話を聞けて良かった。
私にある父の面影…それを、誇らしく思う」
父と血統を誇りだと言う眼差し。どこまでも青い瞳。
全てが懐かしくて、そのどれもが二度と帰らない。ナマエは随分涙脆くなったらしい。
セリスはさめざめと泣くナマエに手を差し出そうとしたが、アレスを見て苦笑した。
エルトシャン王は妹姫を非常に大切にしていたらしいが、妾も同じように愛していたとは有名な話だ。そうなれば、当然アレスもナマエと深い仲であろう。
現状、彼女に友人として気軽に接するのは、少し難しそうだと判断した。
セリスはシグルドに似ていたけれど…かの公爵より、ずっともっと、細やかに気が配れるのである。
なんせシグルドは既婚者でありながら、女性に“君が欲しい”などと言う男であったので。
▽
挨拶を済ませたナマエは、改めて腑が煮えたぎるのを感じる。
彼の血は一見強く出たシグルドと同じ一つだけのようだが、ナーガにロプトウス、その二つが静かに流れている。
人間には分からないだろうが、竜であるナマエには同胞の匂いが分かった。
そして側に控える少女。彼女の血は、神竜ナーガと、火竜サラマンドのものと────地竜であったロプトウス。
血を授けられた人間などの名をナマエは知らない。だが、子孫はただ一人とナーガが取り決めたロプトウスが二つも流れている。
やはり、ロプトウスの血は皆殺しにすべきだったのだ。忘れっぽい人間なんぞが、竜の取決めを守る筈が無い。現に子を一人だけ成すならばと生かされた血は、二人に流れているではないか。
それに、ロプトウスで顕現せぬ程の薄さは有り得ない。何処かに直系が居て、それがユグドラルを戦禍に沈めたのだろう。
ナーガもロプトウスも嫌いだ。人を見下し、弱きものだと、庇護すべき生物だと見なしたくせに、こぞって人間に干渉をする。
そうして彼らの儚い人生を掻き乱して、責任を取らない。最低の種族だ。
▽
軍と共に城に戻ったナマエは、一室を与えられた。
セリスが気を遣ったのか、隣の部屋はアレスである。彼に恋人が居たら迷惑になってしまうのではとナマエは困ったが、反応を見るにそういう訳でも無かったらしい。それはそれで、お世継ぎが気になるのだが。
エルトシャンが二十歳を過ぎる頃には、既に婚約も決まっていて、粛々と外交が進められていた。このような時代でなければ、アレスも今頃は奥方を選んでいただろうに。
「ナマエ。都合は良いか?」
音を抑えようとして、力加減に失敗したような打撃音が響く。父君に似て、少し不器用な様子だ。
部屋を訪ねて来たアレスを招き入れ、椅子を引く。そして、ナマエは絨毯の上に膝を落とした。謝罪の為である。
「何をしている」
驚いた顔でアレスがナマエを見る。
椅子から立ち上がって、尚も膝をつくナマエを困惑した様子で眺めた。
「グラーニェが亡くなったと聞いた際、貴方も命を落としたと思っていたのです。
わたくしが貴方を探していれば、もっと早く貴方を御守りできたというのに」
嘗て、ナマエが膝を付いたのは二人だけ。忌々しいナーガと、敬愛するエルトシャン様だけだ。
アレスは深く溜息を吐いて、頭を抱える。ナマエの意を汲んで、そのままにしておくことにしたらしい。
「良い。それは俺も同じだ。
お前が母上と俺を逃した時、あれが今生の別れと思った。だが、再び出逢えたんだ、それで十分だろう」
「慈悲深いお言葉、感謝致します…」
尚も膝をつくナマエに、アレスは困った様子だった。少し唸って、強引に手を引く。
忠誠を示したいナマエの気持ちを汲もうとは思ったが、いい加減耐えかねたようだった。
元々、アレスは短気で頑固な性格である。譲歩してくれただけ、彼は今回優しかったと言えなくもない。
「今の俺はノディオンの王子ではない。ただの傭兵でしか無いんだ。もう少し、他の者と同じように接してはくれないだろうか?」
アレスはナマエに無茶な願いを申し出る。ナマエは古代竜族であり、王族であったが、そのような身分は人間社会にあって無いようなものだ。
ユグドラルに渡った際、身分も立場も無くなったのである。同胞のようにアカネイアに帰れば、ナマエはまだ神として生きていられただろうが。
対して、アレスはノディオンの王となる人だ。
なんの身分も持たず、若い女の人間と同じ姿をしたナマエなんぞが対等に接せる相手ではない。人も竜も、貴族社会というのは面子が全てだからだ。
それに未来の妻よりも親しい女が居ては、公務に差し支える。グラーニェを立てる目的でも、ナマエは女中として振る舞っていたのだから。
嘗て身分のあったナマエは、部下や従者に対等に接させる事はなかったし、少しでも無礼な口を聞くならば折檻をして来た。それが、正しい王族の在り方だからだ。
そのような振る舞いが当たり前の貴族社会から逸脱し、万が一にでもアレスの立場を下げるようなことになれば…ナマエはエルトシャンに合わせる顔が無いのである。
「申し訳ございません、アレス様。それは出来ないのです」
「おまえがノディオン王家と、父上に忠誠を誓っているからか?」
「いえ。わたくしとエルトシャンは友人です。対等な関係でありましたし、あの方もそれを最後まで望んでおられた」
「では、何故だ」
「しかし妻よりも近しい女が居ては、お立場に差し支えます。それは本意ではございません。…ですから」
「俺は未婚だ。今は女と添い遂げる予定も無い。それでも頷けないか?」
「…わたくしが同性であれば、或いは、今からでも男の姿として顕現出来れば…貴方にも、エルトシャンにも、寂しい想いをさせなかったでしょうに」
ナマエの言葉に、アレスは酷く困った顔をした。
先ほど迄の不満そうな表情でなく、心底なんと返すか迷ったような、複雑な顔をしている。
「おまえが男だと、俺は困るんだが…」
本当に困った顔をしていたので、ナマエも一緒に困ることとなった。
▽
本来、竜族が人間社会に関わることはやってはいけないことなのだ。
ナマエもレヴィン────いや、フォルセティも、事が終われば然るべき処分を受けるのだとナマエは思っている。
「幾時振りですね、フォルセティ。人間などに手を貸して、ナーガが怖くはないのですか。
かの方は崩御なさったが、神子様がいずれお目覚めになる。さすればおまえは裁かれることでしょうね」
今度こそ竜石を奪われ、砕かれるか。或いはゲッシュを契られて、力も記憶も奪われ、人でも竜でもあれずに彷徨うか。
そんなことを思いながら尋ねれば、彼は苦笑した。
「それは貴方もだろう。私はこの地を踏んだ時、人に手を貸すと決めた。寧ろ、人嫌いの貴殿がこの様な姿を晒していること…其方が驚きだな」
フォルセティは淡々と話すが、その言葉の端端には意外そうなニュアンスが聞いて取れる。
彼は当時のような若造でなく、あれから竜として数百年は歳を重ねていた。器の兼ね合いもあってか、ナマエの知る彼よりも落ち着いた雰囲気を持っている。
「貴方と同じ理由です。人を愛しく思いました」
「…そうか。変わったな、ナマエ」
「人の為に竜石を捨てると言った貴方に、わたしは酷く失望しました。ですが今は分かるのです。貴方の気持ちが」
「貴殿は複雑だろうが、それで良かったのかもしれぬ。
この戦いは、ロプトウスと十二の神の戦いではない。ロプトウス自身と、子孫の戦いだ。であれば、貴殿が居ることで対等というもの」
ナマエとフォルセティは近しい間柄である。互いに風を操る竜であったから、生まれ自体が近しかったというだけだが。
当然、わざわざ旧い知り合いを呼び止めたのは理由があって、ナマエは感慨に浸るフォルセティの話をぶったぎった。
「そうですね。ところでフォルセティ。いえ、レヴィンでも構いません」
「なんだ」
「男女の友情は有り得ませんか?」
彼は持っていたフォークを地面に落とした。銀が石の上で硬い音を立てる。
「行儀が悪いですよ」
彼は額に手を当て、唸る。そうして言葉をゆっくり選んで、苦々しく問い掛けた。
「なぜ、私に?」
「あなた、人間好きでしょう」
「あ、ああ…そうだが…」
「アレスさまが、わたくしが男では困ると言うのです。
それはつまり、母性を求められているのでしょうか?」
フォルセティは困惑して、アレスと同じような渋い顔をした。そして「セリス公子!」と叫ぶ。
通り掛かりに呼び止められたシグルドの子は、一瞬だけ怪訝そうにフォルセティを見たものの、小走りで此方へやって来る。
「レヴィン。それにナマエ。どうかしたのかい?
もしかして、何か大切な話をしていたの?」
フォルセティは身分を明かしては居なかった筈だが、この聡い公子は彼の素性を薄々気付いているようだ。
彼は「ああ、まあな…」と先ほどよりも渋い顔をして、大切な話を切り出す。
「ナマエが、男女の友情は有り得るかと聞くのだ。セリス、教えてやってくれ」
「レヴィンはどうだったの?」
「答えられない」
ナマエはなんとなく、フォルセティと融合してしまった青年のことを思い出していた。彼の隣には、緑髪の女と緑髪の女が居て、彼を取り合っていたような。
結局誰と結ばれたかは知らないが、思えばこの解放軍では存在している筈のフォルセティを目にしていない。
レヴィンの返答に苦笑したセリスは、少し悩んだそぶりを見せた。だが、すぐに返答をする。キッパリとした、迷いの無い言葉だった。
「いつかアレスが教えてくれるよ。その時まで待っていたらいい。
私やレヴィンに尋ねても、彼の心は彼にしか分からないからね」
「セリス…その通りだ。ナマエ、そういうことだぞ」
「貴方の手柄ではないのですが…」
竜と竜の器が二匹揃って、数千歳年下の光の公子に説き伏せられた。
▽
「人嫌いの貴様が竜の敵に回るのか」
ナマエはアカネイアに一度戻った時のことを思う。
ナーガの遺言に従い、神殿を守っていたメディウス様は、人間に仲間達を殺されてしまったのだ。怒り、嘆き、失望したあの方は、必ず人に復讐をするだろう。
それは数年後の事かもしれないし、数百年後の事かもしれない。
ナマエはそれを止めないし、アカネイアに残っている同胞たちもそうするかもしれない。
「人間なんぞが地上の王のような顔で歩く世界など、間違っている。
今からでも遅くない。ナマエ、貴様も此方へ来い」
ナマエがメディウス殿を止めようと思わないのは、彼には正当な理由と意志があるからだ。
迫害され、虐げられ、隠れて暮らすことすら許されない哀れな同族を守る為、彼は戦を起こす。
だがロプトウスはと言えば、単純に人類が竜よりも繁栄するのが許せないだけだろう。人も竜も、平和の中に暮らしたいだけだ。
そんな理由で、彼らの営みを破壊されては困る。ナマエはユグドラル最後の竜として、この地に残った人ならざる者として、ロプトウスを止めねばならない。
「断ります。貴方には大義がないので。それに、おまえがわざわざ子供を生贄に選ぶところ…心底嫌いなんです」
氷のブレスを、子供の身体を乗っ取ったロプトウスは楽々とかわした。
まだあどけない顔の少年は、酷く歪んだ笑みを浮かべた。
「神竜ならいざ知らず、氷竜如きが勝てるとでも」
「残念ですが、お前は人間に負けるのですよ」
ナマエはブレスを受けず、人に戻ることで身をかわす。
竜の肉体は頑強だが面積が大きい。竜石に力を封じて、ナマエはその場を動くことなく攻撃をいなした。
最近やっと気付いたことだが、戦場で人へと戻ることに大きな一つのメリットがあった。
竜であったナマエの影から、少女と少年、その仲間たちが武器を構えて飛び出した。当然、ロプトウスは意表を喰らう。
「終わりです、ロプトウス」
少しだけ寂しく思った。これで今度こそ本当に、この地の竜はナマエだけになったのだから。
▽
グランベルの王になったセリスは、幼馴染の姫君でもなく、イザークの王女でも無く、身分の無いただの娘と結婚するのだと言う。
ナマエは彼女に流れる血を感じ取ることが出来たが、なんの力も無い人間からすれば、彼女はただの親の分からぬ孤児に見えることだろう。これから困難に晒されるかもしれない。
だから少女は聖戦士の血筋であると、竜であるナマエが正式に流布すべきかセリスに尋ねたものの、それは不要だと彼は言った。
「父は、血で母を選んだのではない。
私もそうだ。彼女を選び、彼女に選ばれたのは、愛しあっているからだ。だから、君の申し出は必要ない」
「そうですか…」
「だけどね、君の優しさは本当に嬉しいよ」
思えばシグルドの妻は謎の娘であったし、ラケシスだって流れの男と共になった。ノイッシュやアレクの子だって、今や国を継ぐ身分となった。
愛と勇気というのは、他者の思惑や打算を超える。血統や身分などという障害は、惹かれ合う運命の前では無意味な物なのかもしれない。
「ナマエも良いんだよ。好きに生きて、自分のしたいように愛して。
父上だって、君の大切な人だって、きっとそう言ってくれる」
そう言われても、ナマエは好きに生きている。やりたいことをして、本当に心のままに生きているのだ。
だからセリスの言葉に首を傾げたのだが、贈られたそれの意味を再び思案するのは、国に帰ってからの話となった。
アレスは自国であるノディオンに帰ったものの、その地は荒廃していたし、王を失っていたアグストリアも酷い有様であった。
だからデルムッドはアグストリア復興の為について来てくれていたし、ナンナもまたノディオンへと帰還していた。
先ずはアグストリアを統一し、アレスを王として立てること。
彼を旗印として、再びこの地に平穏を取り戻す。それがエルトシャンの意志を継ぐこととなり、彼と彼女の愛した土地を守ることとなるだろう。
そして直面した問題と言えば、アレスの妻────アグストリア王妃のことである。
国を建てて、復興させるのはいい。だが、国家には王と、王のお世継ぎが必要で、それには妃が居る。
ナマエはアレスとナンナが継ぐのだと思っていたが、ナンナは母に似て逆上しやすいところがある。
そう言ったナマエはすぐに怒られてしまった。
「ナマエ…貴方本気ですか?」
「え、ええ…そうですが。ナンナ以上にアグストリア王妃に相応しい女性は居ないでしょう。血統も身分も、立場も」
「呆れた。貴方まだそんなことを仰るのね!お母様も、叔父様も、そんなものに拘ったのが間違いだったと言うのに!」
「そ、そんなことは…そうなったから、ナンナたちが居るのでしょう…」
「それはそれです。ナマエ…私は国や私達だけでなく、貴方の幸せも考えてと言っているの!
お母様や叔父上は、貴方にとって大切な人でしょう。ですが私達にとっても、貴方は同じくらい…!」
「まあまあ。ナンナ、ナマエもナマエで僕たちのことを考えているんだから…」
「お兄様は黙っていて!」
ナンナをデルムッドが宥めたがダメらしい。そのままデルムッドに連れられて、ナンナは別室へと引き込まれていった。
その力関係は、ナマエに嘗てのラケシスと、その夫を思い起こさせる。怒られてはいたが、後ろ姿に少しだけ寂しくなってしまった。
ぼんやりと感傷に浸るナマエに助け舟を出したのはアレスである。
彼は溜息を吐いて、カップに手を伸ばした。
「従兄妹が悪いことをした」
「いえ、よく分かりませんが、ナンナを怒らせたのは私ですので」
「いや。あいつが怒ったのは、俺のせいでもある。悪かったな、ナマエ」
「それはどういう」
いつの間にか、アレスは席を立っていた。
ナマエの真正面に移動して、彼は膝をつく。そうして目線を合わせて、ナマエの指を掬い取った。
「ナマエ。俺の伴侶として、アグストリアを共に築いて欲しい」
ナマエは「いけません」と咄嗟に呟いて、その口を塞がれる。
琥珀の瞳が、青い竜の────人の紛い物の姿を映す。ナマエは自嘲した。同胞たちは、人になるのは恥だと言っていたが、こんな生き物人間などではない。所詮竜はどこまで行っても竜なのだ。
彼の目に映り込む自分の顔が、少しだけ期待しているようなものに見えて、ナマエは自分を恥じた。このようなこと、望んではならない。
「ダメです、わたしは」
「身分が無いと?」
手袋をした手が、髪をすいた。そして耳を撫で、額に唇を落とす。
ナマエは抵抗することもできず、拒むことも出来ず、ただいけないと抗議をするだけだった。浅ましい心が、ただの一人として選ばれようとすることを喜んでしまっていた。
そんなことは許されないのに。言ってはならないのに。認めてはいけなかったのに。
「わたしは竜なのですよ」
涙が溢れて止まらない。ずっと寂しかった。人と共に生きて、ナマエは何度も思った。
竜の命は永遠にも近い。人間はナマエを置いて行く。子供は大人になって、歌も、冒険も、ボートも楽しまなくなる。やがてナマエは一人で、あの霧の深い入り江に帰るのだ。
だけれど、孤独な竜にエルトシャンは居場所を与えた。
側にいられればいい。寄り添えれば良い。ナマエはずっと、そう言って来た。だがそんな訳はない。そんな筈が無かったのだ。
人も竜も、心の浅ましさは同じだ。ナマエはたったの三十年程で、神から人へ落ちた。
アレスは空いた手で目尻を優しく撫でる。
「いい。セリスも言っていただろう。好きに生きろと。
それとも父上は、お前ではいけないと言ったことがあったか?」
「それは…」
ナマエは何も言えなかった。
我が君が、我が王が────ナマエを愛し、ナマエが愛したお人が、そのような事を言ったことはない。それどころか、彼の方との最期の会話は、ナマエと対等でありたかったとの願いだった。
「私は許されるのでしょうか。エルトシャンを守れず、貴方の幸福な時間だって、守れなかった」
祈るように手を合わせる。竜に祈りなどは無い。神はナーガだからだ。ナーガは狂う同胞を救わず、戦い以外の答えなどは与えない。祈るよりも、行動によるよる解決を。それが神として崇められた上位種族の結論だからだ。
だがナマエは全てを失った日から、いや、竜と竜が争い、静観を決めたあの日から。ずっと人の神に祈っていた。何も守れず、一人で生きることが苦しかったからだ。
アレスはその手を解いて、指を絡める。いつの間にか、取り去られた手袋が乱雑に床へ転がっていた。
「贖罪など必要が無い。父も、母も、叔母上も、お前を恨むことなどないだろう。
それに、俺は今この時こそを幸福だと思う。お前が側に居て、こうして求婚できるのだからな」
もう一度、額に唇が触れる。ナマエは居た堪れずに、視線を落とした。
絨毯の上には、溢れた涙が霜柱を立てている。やはり、人間の姿をしただけのバケモノなのだ。人に迫害されるのも当然。無垢な子供だけがナマエを愛するのも当たり前。同じ形を取った、別の生物なのだから。
「人に生まれたかった。エルトシャンと出会った日から…そう思わない日は無かった。竜など、この世には要らない。
こんな血のせいで、こんな傲慢な種族のせいで…」
「そう言うな。俺の愛する女を否定しないでくれ」
「アレス様…」
「俺はお前が、竜でも人でも構わない」
そう言った後に、「いや、違うな」とアレスは首を捻った。
俯く顔を優しく上げて、何よりも愛した金の目がナマエを見つめた。その瞳は、他の女を映さず、哀しみも無く、ただ幸福を語っている。
「ナマエが竜で良かった。偉大な父上と、優しい母上…そしてお前の献身が、俺を祖国へ帰したんだ」
