天使にデスメタルを

 ──────神父が牧師を撲殺していた。

 その光景を見たわたしは、手からナイフを取り落とす。金属の甲高い音が悲鳴のように響き渡り、人殺しがゆっくりとこちらを見た。

「このような夜更けに、如何しましたか」

 闇の中から聞こえたのは、此方を慮るような穏やかな音。聖堂に響くのは男性の声だ。しかしその声色は、この状況に似付かない。
 わたしは眼前に広がる光景と、足元に伸びる赤の生臭さに酷い眩暈がするのを感じた。既に取り返しが付かない程に血は流れているし、壁に飛び散った色は茶色である。
 
 倒れ伏すのは、わたしのよく知った人物…所属している教会の、管理者である肥え太った牧師だ。
 そしてその巨体に足を掛けて、豚でも見るように蔑む神父。そちらは、わたしの知らない男だった。

 彼はわたしを一瞥すると、ほんの少しだけ思案したように身動ぎをする。
 そうして「ふむ」と息を吐いた神父は、なにかに納得した様子だった。

「…成る程、お前は此処の牧師か。では問おう。お前は何処まで知っている?」

 男は敬語を取り払って、わたしに尋ねた。逆光で彼の顔は暗く、その表情を見ることは出来ない。
 しかし、わたしには彼の感情が分かった。神父の声色は静かだったが、その言い方は此方を量るようなものだったからである。

「…わたしは彼らの罪を知っています」

 わたしは講壇に撒き散らされた、不敬の印を見た。白い粉のようなものは、此処にあってはならない罪の証である。
 それを咎める為、わたしは夜にも関わらず聖堂へと足を運んでいた。…しかし一歩遅かったらしいことは、足を濡らす体液が教えてくれる。
 結果、牧師は神父に撲殺されていたというのが事の顛末だったのだ。

 だがそんな事情、凶行に及んだ神父にはどうでも良い事だろう。正直に答えたところで、わたしもまた罪人の一味であることに変わりはない。
 どのような誹りも受けるべきだと彼の言葉を待てば、意外にも神父はわたしを糾弾しなかった。

「そうか。ならば良い」
 
 わたしの返答は、男にとって満足なものだったらしい。
 彼は一貫して感情の見えない語り口であったが、少しだけ柔らかく“良い”と言った。

 そして彼は、手元のランタンに光を灯した。闇夜に紛れていた男の美貌が浮かび上がり、わたしは感嘆の息を漏らす。
 血の海の中で佇む彼は、溜息が出るほど美しかったからである。
 
 彫刻の如く美しい横顔に、翼のように白い髪。天使がこの世に座すならば、その羽根はこの絹の如き乳白色をしていることだろう。
 林檎のように赤い爪は、流れる色とは比べるべくもない。わたしはその光景に目を奪われたが、靴に染みる赤銅色によって現実へと引き戻された。

「あなたは…一体なにをしておられるのですか」

 わたしの問いに、男は微笑んだ。リップの引かれた唇が弧を描いて、赤い月のように怪しく浮かび上がる。今日はわたしにとっての、大いなる恐るべき日なのだろうか。
 息を呑んで彼の言葉を待てば、白い指先が礼服の上を踊った。

「咎人に罰を与えている」

 何処までも高らかな、神への賛辞を述べるような伸びやかな声だった。
 しかしその言葉は傲慢だ。──────ただの人が、同じ人に罰を与える。それは地上を見守り下さる主が行う事で、一介の聖職者が実行するようなことではない。

「許されませんよ、このような蛮行は…!
 …すぐに出頭するべきです。人が人を裁くなど、あってはなりません」

 わたしの主張を聞いた男は、尚も美しい微笑みを浮かべている。
 穢れた黒が染み込んだカーペットを踏んだ革靴が、湿った音を立てた。一歩一歩と、優雅な仕草でわたしへと近づいて来る。
 思わず足を引けば、古びて脆くなった床板が不気味に軋む。わたしは彼に圧倒されていた。

「許される」

 男は天を仰いで、美しく整えられた指先を胸に当てた。白磁の髪が揺らめいて、わずかな光と共に踊る。

「私は善人で、神だからだ」

 頭のおかしい男は、支離滅裂な主張をした。
 わたしはそれを狂言だと断じたが、心の底で不思議と強い説得力を感じる。彼は間違いなく神ではない。決して神では無いし、社会常識の観点から見て善人であるわけもない。
 それなのに、彼の言葉は何処か“そう”だと思わせる強さがあった。

 わたしは気圧されながらも、一歩進む。近くで見る男の顔は美しく、所作のひとつひとつが自信に満ちていた。
 通報すると言ったところで、彼は動じないだろう。言うだけ無駄だと内心で直感する。
 しかし、有無を言わさずに強制することは自由の剥奪だ。わたしは自首を勧めるため、口を開こうとした。

 目の前の神父は、それを咎めるように指を立てる。眼前に迫った指────遠目で見たよりも骨格がしっかりしており、男性のものであると強く感じた。
 わたしは理解する。男の所作があまりにも優美であるから、実際よりも女性的に見えていただけらしい。
 
「お前は裏切らないだろう」

 確信を持った言葉である。盲信と言っても差し支えない程、根拠の足りない言葉。
 一体何を持って、そのような狂言を放つのか。わたしは彼と初対面で、裏切るも何も彼の仲間だったことが無い。
 しかし神父の瞳は、深い友愛と隣人愛を抱いている。暖かな祝福を、わたしに真っ直ぐ向けていた。
 
 彼の言葉は、その通りではない。わたしは神父が自首をしないのであれば、すぐにでも警察へ引き渡すつもりだった。殺人は罪で、許される事の筈がないからだ。
 
 しかし彼はわたしが通報をしないと、強い自信を持って言っている。
 殺して口止めをする気かと考えるも、彼の目に敵意は無い。その瞳は、わたしを静かに歓喜の色で見つめている気がする。
 
 戸惑うわたしに、神父はこう続けた。

「何故なら、神は知っているからだ。
 未だ裁きを受けていない咎人共。やつらはのうのうと、この地上で臭い息を吐いている」

 神父の語る言葉は、要領を得ない。それは突飛で抽象的で、核心に触れないものだった。
 他の誰が聞いた所で、彼の話を理解することは叶わなかっただろう。────だが、わたしには。ひとつ、思い当たる事柄があった。
 
「一体何に許しを得て、そのような蛮行を行なっているのかと。信仰深く善き人であるお前は、毎日そう考えている筈だろう」

「…それは」

 彼の指に乗った鮮やかな赤が、わたしの唇に優しく触れた。

「この粉は、何処から来たのか。どんな咎人が売っているのか。お前はそれを、知りたいと願っているな」
 
 漆黒の瞳は、濡羽のように艶やかだ。
 わたしはそれを覗き見て、嘘の無い言葉だとなんとなく直感する。彼の言葉は真実だ。その情報は、わたしの欲するものだった。

 既に息絶えた牧師と同じ、悪しき売買に手を染めた罪人たち。彼らはグループであり、複数人で悪行をしていた。
 しかし一介の聖職者であるわたしはその内情は知らず、全容を掴みかねている。
 それを、彼は知っていると。そう明確に宣言していた。

 だが何故それを。そして、どうしてわたしの心を理解っているのか。
 彼の考えを少しでも読み解こうと神父を見遣るも、その隻眼は穏やかに微笑んでいるだけだった。
 
 わたしは流れる汗を拭う。そうして跳ねる鼓動を抑えながら、努めて静かに問い掛ける。

「あなたはそれを知って、如何なさるのですか」

「私は神だからな」

 彼が投げた燭台は、真っ直ぐ扉へと飛んで行く。
 それが扉に強く当たると、小さな悲鳴が聴こえる。わたしはその声が“咎人”のモノであることに気が付いた。

「善き行いをする」

 楕円の瞳が、弓のようにしなった。彼は美しく笑ってはいたが、その目には確かな義憤が灯っている。
 わたしはその色を、よく知っていた。

 ▽
「悔い改めない咎人に罰を与える事は、当然の責務だ。
 喜べ、マリア。お前は神の手伝いが出来る」

 この、人を勝手にマリアだと呼ぶスーパークレイジーイカれ男────天堂弓彦さんは、まず初めに自己紹介をした。

 己が神である事と、わたしを姉妹…同志と見た事。
 それらを簡潔に話した。自身と同じくらいの体格の男を、素晴らしいフィジカルで流れるように制圧しながら。
 
 咎人を締め上げ、わたしに紐を持って来いと指示しながらも、汗ひとつかかずに涼しい顔をしていた天堂さん。
 掴み掛かる暴徒をかわし、すれ違い様に足を引っ掛けていた天堂弓彦さん。
 
 彼は運動能力も優れているけれど、どれかと言えば反射神経や動体視力が特に優れているのかも。
 なんにせよ、優雅な佇まいからは全く想像が付かない。人は見かけに寄らないものである。
 
 それに、彼は拘りと思想が非常に強そうな言葉を用いるが、こちらの宗派…というより、信仰心にか。そういったものに対する歩み寄りはするらしい。それも非常に意外だった。
 
 だって、敬虔だからこそ狂信的でイカれた男なのかと思っていたが、案外そうでもない様子なのである。
 わたしたちはマリアをマリアと言うが、聖職者を神父と称する大抵の宗派は“聖母マリア様”とでも言って敬っている筈だ。そこを曲げている時点で、随分柔らかい思想だという所感を抱いていた。
 しかしその半端な社会性が異質さに拍車を掛けており、より一層わたしはこの男を訝しげに見てしまってもいた。 
 
 このままでは無限に悪口染みた考察が出てしまう。一度、話を本筋に戻そう。
 
 わたしの所属する教会は、神に仕える敬虔な使徒の為の施設である。…そうである筈だった。
 今現在、この施設は犯罪行為の隠れ蓑として使われている。それは頭のネジが一本どころか数本しっかり足りない神父─────天堂弓彦の暴力的な行いの事ではない。
 
 天堂さんに殺された牧師。つまり、元々此処に所属していた聖職者。いや、異端者。
 その犯罪者たちが、違法薬物の売買をするために協会を使用していたのだ。
 
 わたしはそれを偶然知ってしまい、どうにか出来ないかと考えた。
 まず、密告は意味の無い事だった。この街の警察は、違反切符を切ることしか行わない。見通しの悪い路地や農道の端に車を停めて、一時停止の無視や速度超過を止めるばかり。
 かく言うわたしも路上駐車で切られたことがある。
 
 …そんなことは一度置いて。
 わたしの知る犯罪者たちは、狡猾で穢らわしい。証拠を全て揃えて根本から抑えない限り、トカゲの尻尾切り宜しく、牧師とコイツだけが裁かれて終わるだろう。

 では、咎人すべてを捕まえ、行いに対する清算をさせるにはどうするか?

「神に全てを告解しろ」
 
 答えは簡単。咎人に更なる罪を────裏切りをさせれば良いのだ。
 いや、そうかな? わたしは怪訝な顔で天堂さんを見る。こんなのダメじゃないかな? 普通にダメじゃないかな?

「さあ、神を手伝え。ペンチ」

「わたしはペンチではありません」

「ペンチを寄越せ。歯を抜く」

 歯?と聞き返したのは、わたしである。縛られた男は何をされるか分かったらしく、必死に命乞いをしていた。
 神は端正な顔を酷く歪めて、わたしの手の中のペンチを奪い取った。
 “お前がペンチでないことくらい分かっとるわ“とでも言いたげな表情だった。
 
 すぐに話せば痛い目は見ずに済むのだが…天堂さんは、彼の口にタオルを詰めている。痛い目を見せる気しかないらしい。
 縛られた男の口の中に、歯医者で扱うようなマウスオープナーを差し込む。続けて、口の中に入れてはいけない工具を突っ込んで、すぐにあんまり聞きたくない音と悲鳴が上がった。

「神は優しい。抜くのなら、親知らずにしてやろう。父と母をよく敬え」

 十戒を持ち出して来た天堂さんに、わたしは思わず「殺してはならない…」と十戒を唱え返す。
 しかし天堂さんはどこ吹く風でスルーした挙句、「邪魔だな。奥歯が掴みにくい」と前歯を普通に抜いて投げ捨てる。

「殺人をしてはならない…」

「咎人は咎人だろう。真っ当な人ではない」
 
 天堂さんはめちゃくちゃを言っている。
 彼が歯を抜き投げ捨てる度に、血飛沫がカーペットに飛び散った。幾多の血を吸い取った布は、もはや赤を通り越して黒になっていた。

「どうだ。告解をする気になったか」
 
 神の前で、神を自称する男が人を拷問している。わたしは痛む頭を押さえながら、それを見守っていた。
 
 男は悪くなった噛み合わせで、汚い言葉を紡ぐ。聞くに耐えない醜さだったからか、天堂さんはオルガンの横に置かれたラジオを点けた。
 流れてくるのは、古い楽曲をオーケストラでリアレンジしたものである。わたしは現実逃避のようにそれに耳を傾けたが、合間に男の悲鳴が挟まって不協和音となっていた。

 暫く悲鳴が続くが、不意に音が止まる。ラジオ番組も終了時間の様で、飛行機の管内アナウンスがそれを告げていた。
 わたしは其方に目を遣ると、血塗れの神父が一仕事終えたような、清々しい顔をしていた。

「神は頑張った。しかし、こういう事もあるだろう」

 血と泡の海に、痙攣する男が沈んでいる。わたしに医療知識は無かったが、放っておけば多分死ぬだろう。
 
 それは困る。慌てて携帯を手にすれば、天堂さんはそれを横から掴んだ。
 驚いて手を離せば、黒々とした瞳がわたしを映す。浮かぶ女の表情は、焦っているようだった。

「不要だ。方法は他にもあるからな」

 そう言って人の携帯をタップする。浮世離れした姿をしているのに、そのフリックは非常に素早い。
 勝手に人の携帯のロックを解除した天堂さんは、そのまま何処かへ電話を掛ける。彼のポケットの中が震え────どうやら、勝手にわたしの電話番号を抜き取っていたらしい。

「信じ、暫し待つと良い」

 人の手に携帯を戻し、神父は背を向ける。
 わたしと死体だけが聖堂に残り、天堂さんは消えようとしていた。
 あまりの出来事に付いて行けない。わたしは唖然とその後ろ姿を見ていたけれど、正気に戻る。もしかしなくても現場の片付けを擦られてはないか?
 慌てて声を掛ければ、天堂さんは振り返って言った。

「問題無い。お前はいつだって、神の声を聞いているだろう」

 わたしは神を信じている。
 …だが、なんだ。神はほら、みんなを見て下さっているから。誰か一人に肩入れするなど、不平等であるから。まあ要するに、だ。
 ─────そんなの全然聞いたことないし、あとなんの解決にもなってない。

 

「こんなのって、こんなのって…」

 わたしはペンキを塗る手を早める。この汚い茶色がブチ撒けられた壁は、見ているだけで罪を感じるからだ。
 白を汚す穢れた赤だったもの。垂れるその色は、わたしの心から滲み出た“いけないこと“の様に思える。
 
 こんなもの、残してはいけない。篝火のように灯る赤褐色を、わたしは消さなくてはならない。
 清らかなる聖堂を汚した罪は、奉仕活動によって償うべきだろう。それに、よく考えずとも─────人を、殺してはいけないのだから。
 
 天堂さんはあの後、特に証拠隠滅なども全くせずに帰宅した。思わずわたしが引き留めて問い詰めてしまうくらい、現場をそのままの状態にして帰宅した。
 彼が言うには、こう。

「夜更かしは美容の敵だ。お前も神を見習い、早寝をしろ。規則正しい生活は、善い事だ」

 確かに、規律に従い早起きをする清貧な生活は“善行”であるのだが。
 人をブッ殺しておきながら、全スルーで家帰るとか有り得ないだろう。あたまおかしいのか?

 人を殺そうが、非常識だろうが、朝は平等にやって来る。しかし死んだ人間は勿論出勤をせず、現在この教会には牧師がいない。
 そこから簡単に露呈して、我々は捕まるだろう。率直に、詰みであると思ったのだが。

「勤勉だな。良い、神がその働きを評価する」

 いつから此処は神父が来る教会になったんだ?
 わたしは喉先まで出かかった悪態をなんとか飲み込んで、尋ねる。

「なんで居るんですか?」

「言っただろう、暫し待てと」

 天堂さんは数枚の紙を取り出した。それをわたしの眼前に掲げる。
 ペンキの付いた筆をバケツに突っ込んで、文字を目で追った。

 そこには麻薬の売買履歴と、組合員の名簿があった。それは何故か、軽い話し言葉で羅列されているのだが。
 内容こそ物騒なのだが、人気動画配信者が書いた台本のような、コミカルでキャッチーな文体で気が抜ける。末尾に書かれた“ユミピコへ”という宛名も脱力の原因だろう。

「此方をどうなさるのですか」

「愚問だな。訪問し、問い正す」

 天堂さんはもう一枚紙を差し出した。保険証の写しである。それは名簿に記載された名前と同じで、現住所が載っている。法律を破る犯罪者の癖に、国の税金を使っているのか。
 無意識に歯を強く食い縛っていたらしい。天堂さんは、わたしの歯軋りを諌めた。そうして「支度をしろ」と表に停めてある車を指差す。
 
 わたしはそれに対して、首を振る。心底不快だとでも言うように、天堂さんはその美貌を歪めた。
 彼は当たり前のようにわたしを伴おうとしているが、此方にはやるべき事がある。そう告げれば、天堂さんは益々顔を歪めた。
 
「わたしは、片付けたら出頭しますよ… だって、いけないことですから」

 天堂さんは首を傾げた。
 聞いた上で“なぜ出頭する必要がある?”とでも言いたげであった。何故も何も、殺人をしてはならないだろう。例え相手が悪人であろうと。

 不意に、呼び鈴が鳴る。どうやら、懺悔室に人が入って来たらしい。
 
 ─────罪を告白する前に、最後の仕事を果たそうか。
 わたしは扉を開け、狭い部屋に腰を掛けようとする。ドアを閉めようと手を伸ばせば、天堂さんは勝手に狭い個室へと押し入った。
 そして、わたしに話し始めるようアイコンタクトをした。睨み付けるが、出て行く様子も無い。わたしは仕方なく、決められた定型文を語り始める。

「本日は如何なさいましたか」

「老人を轢いてしまったんです。私は怖かったので、逃げてしまいました」

 はあ?
 わたしは思わず悪態を吐きかけたが、罵声を押し留めた。まだ、話の全てを聞いてはいない。彼には何か、事情があったのかもしれない。
 そもそも、聞いた話になんらかのアクションをしてはならないのだ。我々は人々の告白を聞き、ただ相槌を打つのが役割なのだから。
 迷える民衆の胸の内を降ろさせるのが、敬虔なる信徒の役目なのだ。
 
 横目で天堂さんを見る。彼は変わらず穏やかであったが、その拳は白い。

「一度乗り上げた時、嫌な音がしました。撥ね飛ばしたというのに、真っ直ぐ道路に横たわったんです
 …だから、アクセルを踏むしかなくて!」

 だから、なんだ。踏むしかない?そんなわけが無い。

「し、しかし。私は、悪くない。そうでしょう。そうですよね!」

「…ええ。罰は、神がお与えになるものですので」

「ああ、告解して良かった! 気持ちが軽くなりました!ありがとうございます、シスター!」

 ────んな訳ねえだろうが。つか、何もかも合ってねえよ。
 
 溢れた言葉は、わたしのものだ。
 天堂さんはこちらを見て微笑む。紅の引かれた唇が弧を描いて、赤い三日月のよう。わたしは銀のナイフを握り締めて、立ち上がった。
 
 扉が閉まって、人でなしのゴミ袋が立ち去る足音がする。
 わたしはそれを双眼鏡で眺めて、車の番号を見た。フロントは正面が凹んでいるし、ガラスはヒビ割れている。相当なスピードで飛ばしたのだろう。
 そして、彼は全く前を見ていなかった風に見受けられる。ハンドルを切る事はせず、追突後にやっと気付いたような…そんな傷の入り方だったからだ。
 
 その状況で、己は悪くないと。────彼は、そう言うのか。

「あの咎人は、おまえをシスターと呼んだな」

「…なにが仰りたいのですか」

「聞かずとも解っているだろう。この教会に、そのような人間は居ないのだから」
 
 天堂さんは視力が良いらしく、手持ちのメモにさらさらと記載している。
 わたしは彼がなにをしようと考えているのか、よく理解が出来た。天堂さんも、わたしの考えをよく分かっていることだろう。
 なぜなら────自然な動作で手渡されたのは、わたしの車のキーだったから。

「こんなのいけない…悪を以て悪を制すなど、いけない…」

 わたしは立ち上がって尚、いまだに躊躇をしている。頭を抑え、額に指を当てた。
 激しい頭痛がする。こんなのは、いけない。分かってはいる。いるけれど、これしかないだろうと薄々気が付いている自分も居る。
 
 このまま何もせず、怒りを抑え、あの咎人を赦す善行。そして────裁きを与え、自省を促し、正しい事を成す善行。
 どちらを取るか、どちらが正しいか。選択に苛まれていると、天堂さんはわたしの背後で声を張った。

「何を言っている。胸を張れ。頭の中の神に従え。それは善い事だ」

 どちらにせよ、これからする行いは最悪だと言うのに。自信に満ちた、清廉な声である。
 
「神は善人だ」

 余計に頭痛が増した。「あー、はいはい…そうですね」と悪態を吐けば、天堂さんは満足げに口角を上げた。
 “そんな事、当然だろう”とでも言いたげである。
 この人とマトモに会話を試みてはならないと、この短い期間にわたしは嫌と言うほど理解をさせられていた。

 頭痛薬を取り出して、水を口に含む。すべて飲み切った後、彼は微笑んで言った。

「────そして。お前もまた、善人だろう」

 わたしはその言葉に返答をしなかった。
 彼があまりにも”正しい事“のようにそれを言うから、何も言い返せなかったのである。
 

「神はこう思う。強い意志とガムテープがあれば、大抵の事はなんとかなる」

 天堂さんは、轢き逃げ犯をガムテープで縛り上げてそう言った。
 格言の様に仰られたが、それは有名な映画のセリフだろう。天堂さんにはそういう洒落を用いる茶目っ気や、俗世間の娯楽を楽しむこともあるのだと、わたしは若干怖くなった。電波の狂人が見せる一般的な感性は、純粋に恐怖である。
 彼はそのまま咎人を撥水カーテンを包んで、簀巻きにするにもガムテープを使った。

「見ろ、言った通りになった」

 出来栄えを誇って来たので、わたしは「はいはい」と流す。
 天堂さんは「良い返事だ。だが、はいは一回で良い」と律儀に訂正をして来た。本当にマイペースである。

 話を現在に戻そう。
 足の長い天堂さんは窮屈そうに助手席に腰を掛けている。後部座席には、カーテンとごみ。何かを言っているようだが、布を噛ませてあるので汚らしい言葉を紡げはしない。
 わたしはパネルの中で跳ねる、電光板のウサギを見た。こんな日が来るのであれば、もう少し大きな車を選べば良かったか。
 だが、そのウサギは愛らしい。多少不便であっても、追突された際に非常に不安に残るコンパクトさであろうとも、わたしはこの車種が好きである。

 天堂さんはカーオーディオのノブを捻った。わたしの少し古くてレトロな車は、爆音でデスメタルを流す。裁きを求め、死を歓迎する悪魔の歌だ。
 わたしは聖職者で、敬虔な信徒で、愛すべきは神と生命を尊ぶ讃美歌で、こんなものを、聞いてはいけない。
 わたしは慌ててノブを逆回転させようとするが、天堂さんはそれを指で止めた。

「悪くはない。これが、おまえの道だろう」

 気不味くなって、ハンドルに備え付けられた方のリモコンでプレイリストを先送りにする。流れて来たのは、90年代の曲をカバーした、子供の声である。
 幼い天使たちの歌声で、You’ll find road into your imaginationと。それは”想像の中に道はある“、だったか。
 わたしはふと、天堂さんの言葉を思い出した。

 “頭の中の神に従え“
 天堂さんは、確かにそう言った。イマジネーション────想像の中に、道がある。想像…もしかして、それは。頭の中と訳すのでは────。
 では、神とは。その神の”声“とは。流れるデスメタルを、神の声と彼は言った。
 
 天堂さんは果てしなく電波ではあるが、言葉と行動が著しくおかしいだけだ。実際の所、その動向は支離滅裂などではない。
 何かの信念、何かの目的、なんらかの意思と意図を持って、一貫性のある行動をしている。そんなことは、わたしにも分かっている。
 では、彼が言う神の声とは。彼の説く、神とは。

「着いたぞ」

 答えに辿り着く前に、目的地へと到着した様だ。こんなこと、考えても仕方が無い。
 殺人を良しとし、自ら私刑を与える精神異常者────そんなやつの言うことなど、理解出来てたまるものか。
 
 わたしはブレーキを掛け、山道の端に車を停める。ログハウスの横には、何度も誰かが車を停めたらしい車輪跡がある。
 なるほど、天堂さんはずっとこんな事をしているらしい。呆れて横目で睨めば、彼は美しい顔で微笑んだ。わたしの来訪を、心から祝福するように。


「鍵がありませんね」

 山に打ち捨てられた車は、誰かが乗り捨てたものだろう。全く、酷いことをするものだ。
 そう文句を言えば、天堂さんは「いずれ神が罰を与えよう。この場で」と殺害予告をしていた。南無三。
 
 わたしは配線を切断し、キーシリンダーの内側にマイナスドライバーを捩じ込んだ。そのまま静かに捻れば、エンジンが掛かって軽快な音を立てる。
 
 天堂さんは先刻、「車を貸せ。罰に使う」と人のかわいい軽自動車を指差したが、わたしは断固拒否をした。
 酷いしかめ面で此方を非難して来たが、車を愛する者としてそのような横暴は看過出来ない。悪人を撥ねるなんて、愛車が可哀想だ。

 代わりにと、わたしは山道に停車された車に目を付けた。違法駐車────いや、違法投棄であろうそれを、我々が有効活用をしよう。
 
 ということで。
 わたしは今、成人男性の上に廃車のタイヤを乗せている。文字通り、人の上に半分乗り上げているのだ。
 アクセルを空吹かしする。暫く誰にも手入れされていなかった車は、幸いにもエンジンが掛かった。排気ガスが、ガムテープで縛られた男に掛けられる。
 
 咳き込む声が聞こえるが、知った事ではない。
 おまえの吐く息の方が、臭くて汚い。そう吐捨てれば、男は弁解にもならない罵詈雑言を述べる。
 
 男は「あの爺さんが地味な服着てやがったからだ!」と叫んだ。
 わたしは思わず顔を顰めた。老爺が地味な服を着ていたから、撥ねても仕方がないとでも?
 てゆうか、おまえは脇見運転だっただろうが。老人が派手な服装だったとて、撥ね飛ばしていたに決まっている。
 
 天堂さんは此方を見て微笑む。彼はわたしの苛立ちを察し、それを心から歓迎しているようだった。

「悪いのは、俺じゃない!あんなところを歩いていた、ジジイだろうが!」

 言い訳。命乞い。他責。咎人は自身の非を認めず、みっともなく他者のせいにする。
 己の過ちは、己が償うべきだと言うのに。悪びれずに、何故こうも醜く在れるのか。
 
「悪いのはあなたでしょうが!」

 思わず、わたしは叫んだ。車両のタイヤで半殺し…半分轢いている男に向かって。
 男はわめいた。俺は悪くない。おまえたちはおかしい。じじいが悪い。シスターは、俺を許すと言っただろう。
  ────はあ?言ってないが、そんなこと。

「言った通りだろう。コレに信仰は無い」

 天堂さんが以前言っていたのはこういう事だ。
 わたしが所属する教会は、シスターという枠組みが存在しない。そこに該当する役職は、信者と神学生か牧師なのである。
 それを知ることすらせず、ただ己の無罪を認めて欲しいという浅ましい欲求の為に神へと────神の崇拝者たる我らへと、ゴミのような告白を吐き捨てる。なんと失礼な行いか。
 
 わたしは激昂して糾弾しようとする。しかしそれより早く、天堂さんが己の見解を述べた。

「誰もそんなことは言っていない。神はおまえに罰を与える。神と、神が。
 そもそも、神の前に人が────善心を持つ者が。その蛮行を、許すと思うのか?」

 天堂さんは落ち着いた様子で、それを見たわたしは少しだけ冷静になった。息を一度吐いてから、「弁解はありますか?」と男に問う。
 
 彼は言い返す。人が人を裁くなどあってはならない。教義に違反している、と。
 わたしはその言葉を聞いて、一瞬で沸騰した。咎人は罪への言及を逸らし、論点を変えようとしたからである。

「…謝りなさい」

 自分のモノとは思えない程、激昂した声。
 わたしはハンドルに爪を食い込ませ、一際大きな声で吠えた。

「認めなさいッ! その罪は、おまえのモノに決まっているだろうが!」
 
 謝れ!謝れ!謝れ!謝罪しろ!
 わたしは叫びながら、何度も足を振り下ろす。
 そして静寂の中で、首を傾げた。男はあんなに騒いでいたのに、返答が無くなったからである。
 殊勝とは百歩譲っても言えないが、やっと自戒したのか。少し、見直した。やればできるではないか。

 爽やかに微笑んで、わたしは窓の外へ顔を出す。

「例え貴方が許されざる咎人であれど、神は平等です。日々の行いを悔い改めるならば、神は減刑を為さることでしょう!」

 そう高らかに宣言した。頬に当たる夜風が、澄んだ心のよう。
 しかし最初に見えたのは、微笑む我が神の後光などではない。酷く不快そうに顔を歪めた天堂さんだ。“加減を知らない阿保めが”と目が饒舌に語っている。
 そして苦々しい顔で、こう言った。

「しっかり踏んでいるな、アクセルを」

 あっ。


 わたしは大型ユンボ────大型免許で扱える油圧ショベルカーの運転席に乗り、地面にその爪を立てた。
 ザックザクと人力の数倍の作業効率で土を掻き分け、丁度良いサイズの穴…人を埋めても問題ない程度の深さがあっという間に出来上がる。
 
 本来、木の根やら何やらでこうも円滑に作業は進まないものなのだが、この山は不自然に開墾された禿げ地があった。
 わたしは、土に何故か縦向きで突き刺さった角材を見て、なんとなくそこを避けて掘り進めた。既に何かが埋まってそうだったからである。

「お前は勤勉だな。この為に大型免許を取得していたのだろう。その努力、神が褒めよう」

「違うに決まってるんですが…」

 普段は罪の呵責に耐えられなくなり自害…という筋書きで咎人への私刑を行っているそうなのだが、今回はわたしが車で撥ねてしまった為それが不可能に。
 だからわたしたちは、咎人を処理する必要に駆られた。

 しかし、ドラム缶に詰めて海に沈めるのは「ゴミの不法投棄だろう」とのことで、天堂さんが所持している山に埋めようという話になったのだ。
 生コン混ぜるのも大変であるから、わたしとしても異論は無い。
 
 山であれば、肉として分解される。どうしようもない人間も、最後に土の養分としては役に立つとのことだった。…でもどっちにしろ、ゴミの不法投棄では?と、わたしは思わないでも無かったのだが。

「不法ではない。この山は私が所持しているからな。私有地にゴミを埋める行いは、咎められる事ではない」

 いつの間にか工事用ヘルメットを被っていた天堂さんは、変な所で真面目である。
 彼は当初“運転資格を持っていない“と、手作業で穴を掘ろうとしていたのだ。
 以前はどうしたのかと尋ねれば、「咎人を雇い、穴を掘らせた。双方埋めれば解決だろう」とのことで、やっぱり角材のところを掘らなくて良かったなあという所感である。

 人を殺す癖に、どうしてそんなところだけ律儀なのか。
 ────いや、分かっている。天堂さんは悪と、敵に対してだけ無秩序なのだと。薄々分かってはいることだ。
 ただ実際に目にすると、ツッコみたくなるのが人間である。

 わたしは眉間を押さえて、ぼやいた。
 
「ああ…殺人なんて…その上、遺棄などと。神はわたしを赦さないでしょう」

「神は許そう」

 テメーじゃねえよバアアアアアアアアアカ!

 おっといけない。あまりにも、あまりにもすぎて、わたしは口汚く精神異常者を罵るところであった。

「…わたしの神は、貴方ではありません。無責任な事を仰らないで頂きたいのですが」

 限り無くマイルドに“お前は私の神じゃねえよ”を伝える。
 天堂さんは、その意図を理解したのか理解していないのか、やはり優雅に微笑んで、土埃が付着した礼服に手を添えてこう言った。

「そうだ。私は神だが─────お前の神は、お前だけのモノだ」

 意外にも、天堂さんはわたしの言葉を肯定した。だが、その言葉の意味を、わたしは理解が出来ない。彼の言う事は、相変わらず突飛でブッ飛んでいると感じた。
 視線で続きを促すも、神を自称する聖職者は穏やかに微笑むばかり。わたしに明確な答えを指し示すことはなく、自身の言いたい事だけを告げていく。

「お前は如何なる時も、否定ばかりだな。悪性にだけ目を向けて、自身の善性を拾おうとはしない」

 それは────当然だろう。
 善行は救いの条件ではない。“そう在って当然”なのだ。神を信仰し、教えに従うと必然的に善い道を進むというだけ。
 なれば、そこからの逸脱は“悪”であって、咎められるべきものだろう。自戒すべきことなのだ。

 しかし天堂さんは、それを否定した。
 こちらの教義を害するような、悪意を持ったニュアンスではない。
 ただ、わたしの自罰を注意するような。そんな言い草だった。

「善き行いをする者に、減点方式などは相応しくない。善行は加点されていくべきだろう」

 それは如何にも、原初的な考え方である。派生した教えではなく、発足した時の教義のような。
 そもそも天堂さんが所属する宗派と、わたしが所属する宗派は恐らく違う。日々の善行を重視するあちらと、日々の悪行を自省するこちらで考え方が大幅に違うのだ。

 天堂さんはわたしの手を取り、力み過ぎて折れた爪を撫でる。

「この指先には、赤がよく似合う」

 彼はそう言い切って、こう続けた。

「お前は穢れを知らない天使のようだが、それは虚構に過ぎないのだ。
 見ることを拒み、聴くことすらも拒んでいる。それを導くのも、神の勤めだ」

 清廉な黒がわたしを見る。非常に美しく、凪いだ瞳で彼は真っ直ぐに目を向けていた。
 天堂さんは、わたしの耳に手を伸ばす。

「歌をよく聴け。
 天使は穢れを知ろうとも────その羽は、白いままなのだから」

 
 ▽
 歌をよく聴く。
 わたしはその言葉を意味を、未だ理解していない。

 そして、出頭も出来ていなかった。
 わたしが自首を試みようとすると、そのタイミングを見計らったかのように天堂さんは現れるのである。
 
 いつの間にか新調したらしい車を伴い現れ、片手にはキーとアルコールチェッカー。ご丁寧に、共に二人分が用意されている。
 因みにだが、前日にワインを呑んだら必ず、わたしも天堂さんも乗車前にアルコール濃度を測っていた。
 わたしたちは罪人に私刑を与えはするものの、道路交通法は守っている。正しさに従った、非常に理想的な運転をしていた。
 
 だがそれだけであれば、わたしは彼を振り払い、罪を告白していただろう。しかし、天堂さんは一度足りとも手ブラで訪れはしなかった。
 片手に今流行りの最新スイーツの箱を持ち、もう片方の手には書類────何処で得たかも分からない、罪人のリストを持って訪問するのである。

 明日こそは、この罪を白日の元に。
 わたしはそう何度も、何度も決意した。だが、天堂さんの甘言に…いや、他責にすべきでは無い。
 これは自主的な行いなのだ。自分自身が、手の届く悪行を見過ごせないから。目の前に提示された悪に強い怒りを覚えるから。
 己の罪を棚に上げて、このようなことを続けているのである。
 
 わたしたちのルーティーンは決まりつつあった。
 いつの間にか教会に常備されていた紅茶を淹れ、今回だけだと前置きをして、これが終われば出頭をすると宣言をして、菓子を頂きながら罪人の処遇に付いて意見交換をする。
 
 置かれたラジオからは、音楽が垂れ流しになっていた。優雅なひと時の中で、まるで世間話でもするように咎人の罪状を述べて、音楽番組が終われば席を立つ。
 ホームセンターに寄って資材を買ったら、カーナビに住所を打ち込む。そして後は、いつも通り。私有地の山に向かって、長距離ドライブである。

「喜べ。これは、お前の求めていたモノだろう」

 天堂さんは、わたしに見せる。
 そこに記載されていたのは、麻薬の密売人。我らが神聖なる教会で、その信徒たちを嘲り誘惑し、蝕んでいたものだ。
 末端の構成員はとっくに全て裁いたものの、その上層部は上手く逃げ隠れしていた。それを、天堂さんは突き止めたのだと言う。

「浅ましい事だ。教会を隠れ蓑にして────次は、教育機関か」

 牧師を撲殺してしまった事で、わたしたちはその手掛かりを一時的に失った。
 しかし、それと同時に密売所も崩壊させている。
 
 追い立てられた彼らは、大胆に行動していたようだ。それこそ、天堂さんがすぐに所在を入手出来る程度には。
 神聖なる学舎で悪しき粉を振り撒き、なんと。無知なる天使達に運ばせていたらしい。そして足切りの際に、愚かな薬物中毒者の過剰摂取として処分をしたのだ。
 そこから発覚したのだと、天堂さんは不快そうに言い放った。

 嗚呼。なんという事だ。売人は教会を捨て、学徒を食い物にしている。未来ある天使達を、子供達を、経験なる信徒達を、コイツらは悪の道へ引き込むのだ。
 わたしは反射的に「死んだ方が良い」と返答する。天堂さんはそれを聞いて、静かに微笑んだ。

「気が合うな。神も、同じ様に思っている」

 わたしはそれに、返事が出来なかった。
 この感情は、悪しきモノだ。法で裁けないからと、人を殺してはいけない。決して自戒しないクソッタレであろうと、殺してはいけない。どんなに薄汚れた肉袋だろうと、ゴミ袋だと思ってはいけない。
 
 そして何より。自身の感情を、怒りを────神のモノとして、代弁させるなどと。
 そんな事、在って善いはずがない。

 わたしの葛藤を見透かしている天堂さんは、珍しく何も言わなかった。あんなに饒舌で、雄弁であるのに。高説を垂れる事はなく、口に紅茶を運ぶばかりだ。
 
 既に、わたしの中に答えがあるとでも言うように。
 ただ静かに、優雅に微笑んで。汚れたわたしを見つめている。出会った時と一つも変わらない、美しい姿のままで。

 …わたしが悩もうと、惑おうと、すべき事はすべきだろう。
 いつもの様に車に乗り込んで、いつもの様に自由に音楽を流す。
 
 ────違うのはただ一点。今日はわたしも、天堂さんも、無駄なお喋りをしなかった。
 彼は静かに微笑んで、わたしを見守る様に眺める。それに返すべき言葉を見つけられないわたしは、苦悩し苦心し、無言を返す。
 それさえも許すと言わんばかりに、天堂さんはより一層柔らかに微笑むばかり。
 
 頭の中の神─────進むべき、道。イマジネーションの中の答え。
 正解をお前は知っていると、隻眼は饒舌にモノを言う。

「しかし、わたしは…」

 目的地に着いて尚、わたしの心は揺れたままだ。
 どっち付かずのまま、己の中の正しさを信じられない状態で此処に居る。

「謙虚は美徳だが、過ぎればただの自虐になる。善行は善行として、自身が認めねば意味が無い」

 呆れた顔をした天堂さんは、一つ手紙を差し出した。
 わたしは封を開けて、目を通す。
 
 書かれていたのは、感謝の言葉だ。
 神を称賛する、行き場のない手紙。裁きをお与えになった神を讃える、民衆の声。
 わたしはそこに小さな安堵を覚えて────その考えを振り払った。わたしは神ではない。わたしは殺人者である。彼らが救われることは当然だ。
 だが、悪人と同じく、私刑を与えるわたしもまた悪である。

 このような事をして、許されるのは我らが敬愛する神だけだ。
 裁きなど、ただの人が与えるべきではないのだ。

 わたしは浮かない顔をしている事だろう。
 晴れない気分のまま、悩める迷い子のまま、頭を上げる。逆光の中で輝く赤色は、変わらず美しい色をしていた。

 ▽
 ─────人間の血は赤色だ。
 そこに疑いは無い。ただ、“こんなに非道を働けるわたしは、本当に血が流れているのか?”と、そう少しだけ思っていた。

 これはきっと、罰だろう。殺人に加担し、悪を許容したからバチが当たったのだ。
 腕に刺さる注射器は、本来入れてはいけない場所に突き刺さっている。燃えるように熱い腕に、今にも嘔吐しそうな視界。

 わたしたちは、ガムテープを手に男を見下ろしている。部屋には血と、割れた鉢植えと、無惨にも散った植物が転がっていた。
 何故縛り上げたかと言えば、彼はどうしようもない悪人だったからだ。男────薬をバラ撒く、悪しき者。許せない。赦されない。潜伏先の住所に、彼が居て良かった。

 頭を抑えて、割れた額から噴き出る赤色を見る。足元に飛び散る血は赤色だ。ゴミ袋たちと、何ら変わりない。

 わたしと天堂さんはガムテープで窓を叩き割ってから家に上がり、ガムテープで壊した窓を直した。自分達が割ったのだから、責任を持って直さないと。
 天堂さんも「神は頑張った」とガラスをガムテープで修理していた。風通しが良くなった部屋で、植物はよく育つ事だろう。二度と育てさせないが。

 そうして男の帰宅を待ち、現れた彼を天堂さんが縛り上げようとした。いつ見ても感心するような、鮮やかな手付きで。
 だけれど男は植木鉢を持ち上げて、迷わずわたしへとそれを振り下ろす。よろめいたところに、注射器の一打。ひどい走馬灯を見た。それが冒頭である。
 ただし相手も無傷ではない。わたしが頭に直撃を受けた代わりに、天堂さんの手刀が入った。
 神、そんな技使うんだ…とフラつく頭で思いながら、壁にもたれ掛かって、今に至る。
 
「帰宅するか?」

 珍しく、天堂さんがコチラを心配している。────いや、珍しくはない。彼はいつだって、わたしを案じていた様に思う。
 こんなところまで来ていたのに、もう進む道を決めていたのに、“くだらない法律“なんかを律儀に守って、決めかねているポーズだけをしていたわたしを。
 首を振って拒否すれば、天堂さんは微笑んだ。
 
 なんだか思考がとても澄んでいる。乱雑である筈なのに、すべき事が明確で清々しい。
 わたしは抵抗に遭い、額に殴打を受けていた。割れたらしい皮膚から流れる赤は、こちらの思考をクリーンにしてくれる。
 
 いつだってわたしは憂鬱で、世を憂いていた。
 しかしこの部屋に足を踏み入れて、男を裁くと決めてから。
 わたしは非常に澄み渡ったような心地で、爽やかな気持ちで此処にいる。あとなんだか、この部屋は粉っぽい気がする。煙くもある。多分だが、わたしは薬物を吸い込んでいた。
 頭にぶつけられた植木鉢の底には、なんだか白い粉が詰まっていたから。おかげで、黒い服が粉まみれだ。
 
 だが、まあ良い。ハイだろうがロウだろうがバッドにトリップしようが、わたしは役目を失わない。目的意識を強く保持したままであった。
 
 男は悪しき行いをしている癖に、自分が裁かれるとは思っていなかったのだろう。
 家のロックは一つで、ただチェーンが付いているだけ。防犯会社との契約も無く、窓を割ってもブザーが鳴る事は無かった。
 
 手も足も口もテープで固定された男は、必死で腕の拘束を剥がそうとしていた。無意味な努力だ。
 もっと頑張るべき事があっただろう。善い道を選んで生きるとか、今迄を悔い改めて自害を選ぶとか。
 同意を求めれば、男は顔を引き攣らせた。どうやら、あまり反省をしていないらしい。あなたが自省しているならば、涙を流して祈る筈。そうだろう?

 必死に頷く男に、わたしは軽蔑の意を示す。
 あなたよりも、ガムテープの方がしっかり役目を果たしている。あなたはガムテープ以下で、恥ずかしくはないのか?
 わたしは微笑んで、そう問い掛けた。

 天堂さんは口のテープを剥がす。男は震える声で、命乞いをした。
 それを天堂さんは暫く聞いていたけれど、「聞くに堪えん」と非常に嫌な顔をする。わたしはそれを諌めて、男の弁明を最期まで聞く努力をした。
 彼の主張は支離滅裂である。しかし真面目に聞かねば、正しい道を示せないだろう。

 ひとつ。粉を買うのは、自由意志であること。
 ─────わたしは即座に反論をする。撒かれた悪は、菓子に練り込まれたモノがあった。彼らはそれを少しずつ配って、顧客を望まない形で増やしていただろう。

「一つ間違える度に。神が一つ、罰を与えよう」
 
 天堂さんは、背中に回された手の指をひとつ折った。逆向きに曲げて、対の指を組ませる。

 ふたつ。殺人をするコチラの方がイカれている。
 それは反論が出来ない。わたしは肯定し、それはそれとして「我々の話はしていません」「なにゆえ話を脱線させるのですか」「残念ですが、減点ですね」と主張する。
 天堂さんは指をまたひとつ折って、対の指と組ませた。

 みっつ。商売をしていただけ。
 ─────もう異界とかに送っていいか、こいつ?

「言っただろう、問答をするだけ無駄だと。多くの咎人は、自戒をする事が無い。
 己の罪に、気付いてすらいないのだからな」

 “早くブッ殺そう”と主張する天堂さんに、男はやっと危機感を覚えたらしい。すみません、ごめんなさい、許してくださいと謝って、わたしたちの足元に自ら転がった。
 床に頭を擦り付けて、神様と。少しの信仰心も無い声で、ただ都合の良い事象を擦るだけのような浅ましさで、神へと縋る。
 
 わたしはその声を聞いて、激しい怒りを覚えた。
 だが、冷静になれと拳を握り締め、努めて静かに投げ掛けた。

「祈りなさい。あなたには、まだ出来る事がある筈です」

 男は顔を持ち上げた。そして「シスター」と、わたしの靴を舐める。
 その瞬間、視界が真っ赤に染まる。血液が沸騰し、ホットワインにでもなった心地であった。

「違います。違うでしょ。違うだろッ!?おまえがァアーッ!詫びるべきはわたしかッ!?」

 肉袋の頭が跳ね上がる。震える唇に、わたしは爪先を捩じ込んだ。
 歯が弧を描いて宙を舞い、血が床に飛び散る。彼は組んだ指を遠く離すほどに暴れた。
 
「おい……祈れッ!祈れよッッッ!祈れって言っただろうが!?わかんねえのか!?てめーバカか!? 祈れって言ってんだよォーッ!!!」

 わたしは何度も足を振り落ろした。この罪人の、この豚の、この穢らわしいゴミ袋は裁かれるべき────いや、裁くべきだ。神が。そう、神。神はわたしで、わたしの神が。
 
 天堂さんは此方を見て、溜め息を吐いた。
 足元に蹲る男は、既に祈りどころではない。謝罪を繰り返すばかりで、それも中身の無いものだ。
 いけない。こんなことは、パワハラだ。暴力というパワーを使った、一方的なハラスメントに過ぎない。ちゃんと頭で理解して、心の底から祈って貰わないと。
 その場限りの言い逃れで口にした言葉など、なんの価値も意味もない。
 
 わたしは一つ咳払いをして、彼の血をハンカチで優しく拭って、そうしてやっと本題を述べた。男の顔に、わたしの額から噴出する血がポタポタと掛かる。

「…違いますね。あなたには、傷付けた相手が居る筈です。理不尽に害し、悪で犯した家族が」

 取り出した袋には白い粉。真っ黒な罪の象徴は、それを感じさせない色彩を持っている。

「罪深き人よ。あなたは、未来ある少年少女に粉を配り、足が付いたらこれを────」

 わたしはそれを眼前に掲げて、封を切った。少しだけ、甘いような香りがする。

「────これを、死ぬまで飲ませましたね」

 彼らの足取りが長らく掴めなかったのは、逃げるのが特別うまかったとか、そんな理由ではない。
 無知なだけの罪なき民を薬物で犯し、それをエサに仕事をさせる。そして追っ手が迫れば、致死量を与えて殺害する。
 
 そんなことを繰り返して、彼らは尻尾切りをしていたのだった。
 そうすれば、彼らの腹は傷まない。贄の羊が、スケープゴートが居るのだから。嗚呼、なんと非道な行いであるか。浅ましい。信じられない。

「清濁を等しくお飲みなさい」

 わたしは高らかに主張する。割れたガラスから差し込む夕日が、美しく反射してステンドグラスのよう。
 ガムテープが半端に日を遮って、中々良い仕事をしている。天堂さんは「神の裁量だ」と自慢げに此方を見た。

「甘い汁を飲み干したでしょう。なれば、次は泥水を口に含みなさい」

 コップを手に取って、水を注ぐ。男は首を振った。それは燃やして使うものだと主張するが、知ったことではない。
 粉くらい我慢して飲みなさい。神がそう言っている。
 しかし意外な事に、天堂さんからストップが掛かった。わたしは其方に気を向ける。彼は、透明な丸い紙────いや、可食フィルムを手にしていた。

「咎人も、オブラートを使う権利はあるだろう」

 それは確かに。わたしは「盲点でした」と己の非を認め、粉を包んだ。
 男は喚く。せっかく粉をオブラートに包んでやったと言うのに、まだ不安があるらしい。
 わたしは安心させるように微笑んで、ゆっくり明るく話す。
 
「大丈夫! あなたが神に赦されるなら、あなたはきっと死にはしません」
 
 神は粉を手に取った。一袋。二袋。三袋。

「幾つで召されますか?」

 わたしは天堂さんに尋ねる。彼は微笑んで、答えた。

「六つあれば万全だろうな」

「そうですか。では七つにしましょう」

「同感だな。神が与えるならば、七ほど完全な数字はないだろう」

 男の顔が、醜く歪む。
 それは恐怖や焦燥、後悔に満ちている。────嗚呼、後悔。後悔とは、自省だろう。それは、悔いているということで、反省をしているという事だろう。
 彼は、最期の最期で正しい行いをしたのだ。今までの罪の非を認め、“やらなきゃよかった”と、当然の結論に辿り着いたに違いない。
 
 それじゃあ死んでしまうと男は喚いた。
 わたしは天堂さんと顔を見合わせて、微笑む。それはあまりにも、馬鹿馬鹿しい主張だったからだ。
 コイツ聖職者であるのに、“死んでしまうから”などという愚かな理由で、七を拒むのか?
 わたしはおかしくなって、思い切り笑った。

「別に、死んでくださって構いませんよ。
 神がどうのこうのの前に、人があなたを許しませんからね」


「見事だ、姉妹。お前はマリアになったのだ」

 天堂弓彦はわたしの髪に手を触れ、キスをした。
 床に転がるのは、泡を吹いて倒れ込む男。随分と長く痙攣していたものだから、さぞや善き自戒が出来たことだろう。
 彼は、最後に神を見た筈だ。祈り、縋り、心の底から後悔をしたに違いない。──────では、わたしは?
 
 長いバッドトリップ…酷い興奮状態から正気に戻ったわたしは、冴える頭で爪を立てる。自らの皮膚にだ。
 悪しき粉の蔓延した部屋は、わたしから秩序を奪い取った。思うがままに、正しさを押し付ける獣。
 例え相手がごみであろうと、そんな無秩序は在って良いはずがない。

「善き行いだった」

「うるさい…」

「お前の事を、神が褒めよう」
 
「うるさい…うるさいッ!黙れ…黙れ黙れ…うるさいんだよ…わたしは聖人じゃないッ!おまえもだッ!おまえも神じゃない!」

 支離滅裂な言葉だ。そう分かってはいるのに、怒りを彼にぶつけてしまう。
 赤いリップを塗っていた天堂さんは、ふとその手を止めた。いつものように紙で伸ばさず、引かれたままの赤さが毒のように艶めく。

「それは違うな。
 理解っている筈だ。頭に響く神の歌を────お前は最初から、ずっと聴いているのだから」

 天堂さんはわたしの頬に手を触れて、その赤い唇を合わせた。そうして離れて、鏡越しに青ざめたわたしが映る。
 酷く白い顔をしていたから、移った赤は目に痛いほど眩しく見えた。

「思った通り、よく似合っている。お前には、私と同じ赤が映えるな」
 
 わたしには薄らと分かっていた。天堂さんが何を言いたいか。どうしてわざわざ口紅を移したのか。

「お前はあの日、ナイフを手にしていた」

 天堂さんはわたしに赤い口紅を握らせた。いつも彼が引いている、鮮やかで艶やかな赤色だ。
 血よりも眩しく、ワインよりも毒々しい、目を焦がすような赤色。それは宗教画に書かれるりんごのような、魅惑的に輝く赤色だった。
 
 そうして空っぽになった指で、わたしの袖へと手を伸ばす。爪先が金属に掠めて、ナイフを手にした。あの日振り下ろし損ねた、鈍を。

 天使のように白い肌と、羽根のように軽やかで美しい髪。そして手には、銀の短剣。
 彼は人に私刑を与える。だがその姿は変わらず清廉で、出会った頃のまま神々しい。わたしはその理由を、とっくに理解っている。

「私が罰を与えずとも、あの愚か者は天命を終えていただろう。
 ────お前はそれを、誰より知っている」

 天堂さんはラジオを点けた。流れる曲は、聖歌でも讃美歌でも無い。
 それは激しく、暴力的で、刹那的な、わたしの愛する─────。


 わたしは小さな頃、死を祝福する歌を聴いたことがある。この世の腐敗を呪い、穢れを嫌う天使の歌。Summoning Redemption…わたしはずっと、求めていた。救いを。
 いつか神様が、悪人を捌いてくれる。善人を食い物にしてばかりの腐敗した世界を、救って下さる。
 
 罪人は死後地獄に堕ちる。人は皆、生前の行いに応じて神の審判を受けるからだ。

 だが。
 わたしはずっと、思っていた。
 どうしようもない悪人は、早く送ってやるべきだろうと。
 裁きから逃れるなど、あってはならないのだと。
 
 天堂さんに出会ったから、そう考えたのではない。彼はわたしを唆したけれど、それは無から有を産んだのではなかった。
 マリアは既に受胎していた。それを、早く産めと。産み落とせと。天堂弓彦は、そう言っていたに過ぎないのだ。

 頭に響く音は、とっくの昔に讃美歌では無かった。彼の聴くような、聖歌でもない。
 わたしはずっと昔から。裁きを歌い、浄化を望み、腐敗に死を与え、暴力的で破壊的で、それを善しとする────あの曲を。あのデスメタルを、愛していたのだから。

「神はお前を誘惑した訳ではない。
 “元から”お前には素質があった。善い行いをする為のな」

 天堂さんは珍しく、直接的な言葉を用いた。
 それをぼんやり眺めて、彼の美しさを再認識する。高らかに、歪んだ善行を肯定する姿。
 わたしはやっぱり、それが“人として正しい”とは決して思わなかったけれど──────。

「…それは…神の、ですか」

「言わずとも理解しろ」

 傲慢な言葉のようで、それは優しい。
 口の出さずとも、お前の考えは正しいのだと。天堂さんも同じ風に考えていると。言外にそう言っているのだと、わたしは直感的に思った。

 もう、迷わなかった。
 これだけ天堂さんが発破を掛けていたのだ。良い加減、答えを出さねば、この友情に対して不義理とも言える。
 
 静かに立ち上がったわたしに、天堂さんはナイフを手渡す。銀に反射する女の顔は、安らかで穏やかだった。
 しかし、あれだけ法を犯しながら、本質的に一つも“悪いと思っていない”。鏡面に映る聖職者は、変わらず済ました顔で微笑んでいた。

「このまま己に嘘を吐き続けるのであれば、どうしてくれようかと思っていたところだ」

「…随分、ご心配を掛けたようで」

「良い。神が許そう。察しの悪さも、理解の悪さも、頭の悪さも、歯切れの悪さも、罪ではない。お前の悪い所は、衝動性だけだ」

 今すごいボロクソ言ったなこの人。

「事実だろう。悔い改め、正しく自省をしろ」

 かなりストレートに“殺人については自省が不要です”と言った天堂さんは、愉快そうに笑った。
 そんなんパッと伝わるわけがない。わたしが頭悪いんじゃなくて、天堂さんが電波なだけだと思うのだが。そう言い返そうとしたが、何やら外がうるさい。
 
 窓を見れば、先程まで無かった車が止まっている。
 わたしと天堂さんは視線を合わせて、指に手袋を嵌めた。素手でやっては、爪が傷付くからである。
 
 程なくして、ドアが開く。
 アパートを根城にしていた彼ら────いや、ごみ。責任者自らが栽培活動に勤しむとは、勤勉なことだ。
 わたしたちは微笑んで、来訪者を祝福する。そして送る言葉も口にした。

「頭病める者は────病んだまま、死になさい」

 わたしは像を手にしていた。殺せ。ずっと縋って、祈っていた大切だったものだ。殺せ。

「その通りだ、姉妹。導く余地が無い者を導いてやるのも、神の役目だからな」
 
 像を振り上げて、一番硬いところで殴る。殺せ。殴る。殴り付ける。殺せ。わたしはひとつ賢くなった。聖母の角は、硬いんだ。殺せ!

 ”地獄に堕ちるぞ“
 そう男は言う。男? 男ではない。こいつは、ヒトではない。殺した方がいい。ブラザーを見遣れば、彼も頷いた。

「救いの無い愚か者だな。堕ちる筈が無いだろう。
 神はこの行いを求めている。例え一時は暴力に訴えようとも──────咎人を裁いたのなら、それで清算出来る」

 天堂さんも同意見らしい。わたしもそれが言いたかった。
 肯定するように、わたしは指を組んだ。絡めた肉の先から、液体が滴り落ちる。神の顔は赤で染まって、血の涙を流しているようだった。
 嗚呼、なんということだ。神様を泣かせてしまうだなんて。なんて─────なんて、罪深い咎人なのだろう。こいつは。
 
 ラジオから流れるメタルに合わせて、わたしは腕を振り下ろす。殴打。
 
 音楽に乗ると、とても爽やかな心地になれる。
 わたしはドラムがいっとう好きだった。打楽器というのは、リードの役割を持つ事が多い。
 人を善き正しさで導く神のように、他の楽器を誘導する。このどうしようもないゴミ袋の殴打音でさえ、心地の良い音色だと思わせてくれるのだ。

「おまえの血で、わたしの罪は雪がれることでしょう。神の血はワインなのですから」

 ─────いや、違うな。それでは、こいつの血は聖なるものだということになる。
 それは違う。違うよな。おい、違うだろ。

「ゴミ袋から出たに過ぎない汁が…血だって言うのかよおまえはよ」

 言っていない。そう、男は叫ぶ。なにやら言い訳を並べて、言い逃れをしようとしている。ああ、なんて浅ましい。
 しかし。わたしの胸に、汚れた言葉は響かない!
 
「はあ?血?これが?あるわけねえだろうが寝言は死んでから言えよ────ッ!」

 頬に汁が掛かる。汚ない色。
 わたしたちは同じだったのだ。神の名の元に、神を汚す咎人を裁く。おなじ正しさを、おなじ狂った清さを持っている。
 彼にもわたしにも、ワインのような赤がよく映えるだろう。だって、わたしたちは白いのだから。銀のナイフが手に馴染むだろう。だって、わたしたちは善なる者なのだから。

「お前の衝動性は悪癖だと言っただろうが」

 天堂さんはそれを微笑みながら眺めていた。
 口では咎めている割に、はしゃぐ此方を見て喜んでいる気配すらある。

「今のお前に導きは必要無いだろう。何故ならお前は、私と同じ神なのだからな」

 わたしも同じ意見だった。天堂兄弟は、悪を捌くのではない。神の審判の前に、人のジャッジを下す。善い事をしているのだ。
 そう叫ぶコチラに、彼もまた答える。

「神はお前を歓迎し、隣人として愛そう。お前の義憤は、善き心なのだから。
 ─────祝福しよう、新たな神の創造に!」

 自信に満ちた表情で、なによりも正しい事の様に。

 
 ▽
 清々しい朝日だ。
 運転席に差し込む陽射しは、わたしの人生の、新しい門出を祝ってくれている様に眩しい。

 車には控えめな音量で音楽が流されており、近隣住民に配慮した結果と言えよう。やはり隣人は皆、支え合って生きていかねば。
 人という字は、人と人が支え合って出来ている────なんて言うだろう。ね、そうでしょう。

「? 返答がありませんね。嗚呼、気持ちの良い朝だと言うのに」

「お前が後屈させたからな。返答したくとも無理だろう」

 逆向きの人の字のように素敵な曲がり方をした男は、浅い息を吐いている。わたしは「頑張れ!もう少しです!」と声を掛けた。────いつもの私有地まで、あと十五分ほどか。
 ああ、そうだ。最期くらい、希望を聞いてあげるべきか。咎人にもオブラートを使う権利はあるし、化石になるポーズを選ぶ権利がある。
 それまで我慢してくれたら、自由な姿勢で埋めてあげられる。頑張って欲しい。

「ほら、天堂さんも。頑張る人を支援するのは、素敵なコトですよ」

 天堂さんは非常にイヤな顔をしてわたしを見る。
 ”頭のネジが足りとらんのか?”とでも言いたそうだが、応援は善い事だろう。
 
 というか、頭のネジが足りてないのはお互い様だ。
 冷静になって考えずとも、普通に天堂さんもわたしも治外法権を頭の中で適用させているだけのアウトローだ。犯罪者です。
 でもイマジネーションの神が“そうしよう”って言うから、そうしているのだ。あくまで、心の衝動が正しいって言ってるから正しいと主張しているだけの、精神異常者に過ぎない。

 わたしはそう言い返したかったが、それを言えば大変に長く電波から説教をされる事は分かっていたので、お利口に口を閉じた。
 多くは語らず、本音を伏せて生真面目に振る舞うのは我が宗教でも美徳とされている。また一つ、善いことをしてしまった。
 
 善行を積んだわたしを冷ややかに見ていた天童さんは、嫌な顔を隠さずに向けてくる。
 彼は少し思案した後に、こう続けた。

「咎人に掛ける言葉は無いが…そうだな。その主張には、一理あるだろう。神は、人の善い意見も聞けるからな」

 そうして機嫌が良さそうに、それでいて厳かに、尊大ではあるけれど、非常に清廉な声でこう尋ねた。
 
「祝いに、神の言葉を与えてやろうか?」
 
 わたしは少し悩んで、必要ないと返答する。そうして車を止めて、微笑む。
 同じ様に笑みを浮かべる神が、朝日の中でわたしを見ていた。その表情は、心の底からの祝福を映している。

「そうか」

 そうだ。
 だってわたしも、神だったのだから。

 短い言葉だったが、その返答がなによりも善い事の様に、わたしは思う。天堂さんもまた、わたしの言葉へ同じ様に感じているに違いない。

 山の澄んだ空気が、肺に優しく染み渡る。
 心地良い音楽と、控えめな車のエンジン音。そして咎人の呻き声に、機嫌の良さそうな鼻歌。これから行う善行に、心が躍る。
 明日の朝はきっと、今日よりもっと清々しいことだろう。